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「それが、靴を手渡してくれてから、彼はあっという間に消えてしまったのよ。お礼を言う暇なんて、なかった」
「真実子、何やっているのよ。そんなことじゃ、チャンスをモノにできないじゃん。
で、素敵って、どこが素敵だったの? どんな男?」
「うーん、チラッとしか顔を見ていないんだけれど、爽やかな男らしい感じの人だった」
彼が意味ありげな目配せをしたことは、黙っていることにする。
「で、結婚指輪はしていた?」
「知らないわよ。なにしろ一瞬の間に起きた出来事で、そんなことに気を廻す暇なんて、まったくなかったわ」
以前付き合っていた所帯持ちの葛西の顔がふと脳裡に浮び、真実子は急いでその苦い記憶を追いやる。
香織にあきれたという顔を向けられた。
「真実子はこれだから。東京にはイイ男がたくさん生息しているけれど、それを狙うクーガーみたいな女もたくさんいて、もう誰かに捉まっていたりするわけ。
時間を無駄にしたくないのだったら、男が指輪しているかどうかくらい、常にチェックすべく心がけなきゃ。
私だったらイケている男に出逢ったらすぐ追いかけて、携帯の番号ぐらい手渡しておくけど」
さすがに香織は積極的だ。彼を見たとたんに思考が停止してしまい、突っ立っていただけの自分には、到底そんな芸当は真似できそうもない。
連絡先なんて渡せなかったし、電話番号どころか名前だって知らないのだ。
真実子は肩をすくめ、生温くなってしまった苦いブラックコーヒーを啜った。
翌日、再び早起きをして同じ時間の中央線の同じ車両に乗り込んだ。
通勤者は毎朝同じパターンで行動しているはずだから、もしかしたら例の男と再び一緒の車両に乗り合わせるかもしれない、と期待したのだ。
車両の中央近くに立ち、駅で乗り込んでくる背広姿の男達の顔に忙しく視線を走らせてみる。
しかし、混み合っている電車の中で、乗客の肩越しに全員の顔を確認することなど、無理だった。
けっこう背が高い男だったように記憶している。それで長身の人に的を絞って見渡したけれど、結局それらしき男を見かけないうちに電車は東京駅に到着した。
ホームに降りてからも諦め切れず、月曜日に彼が消え去った階段の横でしばし立ち止まり、溢れる通勤客の中に男の面影を探してみた。
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