第2章 プリンスの正体

13/14
前へ
/112ページ
次へ
 あわてて電車から飛び降りた真実子の眼に、ホームに大きく掲示されている駅前留学の看板が飛び込んできた。 「誰でも英語を話せるようになります」  広告の大きな文字を凝視しているうちに、これは啓示ではないだろうか、と思えてきた。  英語が喋れなくて、どうしてアメリカ帰りのサカキのガールフレンドになれようか。母に教えられた「人事を尽くして天命を待つ」という格言が、ふと脳裏を掠めた。  看板には、当駅中央口徒歩二分、と英会話教室の場所が地図で示されている。  真実子の足は誘き寄せられるように、自宅がある公園口ではなくて、看板に表示されていた中央口に向かっていた。  まだ紅葉には早いはずなのに、井の頭公園の樹々は葉が黄褐色に変色しはじめた。近くを通る車の廃棄ガスや老齢のせいかもしれない。  イアホンで英会話を聞きながらジョギングしていた真実子の眼の前に、琥珀色の枯葉が舞い落ちて来た。思わず足を止め、秋だからかもしれないけれど、わけもなく淋しさに襲われる。  あれ以来サカキにばったり出逢うことはなく、家と会社の往復、そして英会話のレッスンで過ごしているうちに、何週間も経ってしまった。  もしかして彼と付き合う日が来るかも、と夢見て再開した英語の勉強だというのに、その彼は真実子を翻弄させ、そして忽然と消えたのだ。  陽が燦々と降り注ぐ美しい週末だというのに、秋の息吹を一緒に満喫できる彼氏もいない。  これまでは、恋人がいなくたって毎日がそれなりに楽しかったはずなのに、彼に出逢ってから、何かが欠けているという淋しさをぬぐい切れないでいる。  いくら根を詰めて仕事をし、女友達と美味しいものを食べに行ったところで、恋する人がそばにいない人生なんて、虚し過ぎる。  そんな弱気になるのは、物憂い秋という季節のなせるわざだろうか。  強烈な陽射しにすべてが輝いていた夏が過ぎ去り、溜息やら思索が似合う秋の気配が深まりつつある。  彼を見かけて心弾ませていた日々は、すでに過去のものになったらしく、記憶に残っているときめきも、淡いベールに覆い隠された夢のごとく、はかなく感じられる。  時期尚早に色あせて散った枯葉に、真実子は思わず自分の姿を重ねていた。  来年は三十歳になり、そうしたら四十、そして五十を迎えるのも、もはや時間の問題だ。
/112ページ

最初のコメントを投稿しよう!

551人が本棚に入れています
本棚に追加