第3章 偶然の出逢い

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 九月末半期を終え、月曜日早々に課をあげての残業だった。  真実子がようやく仕事を片づけると、課長は家に直帰したくないのか、一杯飲みに行こうかと数人に声をかけていた。  皆馴れたもので、適当な言い訳をして誘いを断って席を立ち、帰り支度をしている真実子に、坂井君は暇だろう、と課長の声が飛んできた。  まるで彼氏がいないことを皮肉るような発言だ。真実子はむっとして、英会話のレッスンがありますから、と嘘をついて早々に逃げ出すことにする。  本当は英会話の日ではないけれど、この際、どの曜日にも予約を入れられる個人レッスンに変更しようかと考えている。  週一のグループ授業では上達しそうにないし、別に他の日が忙しいわけではない。香織や玲子との食事の約束以外、手帳のカレンダーはいつだって空白だ。  エレベーターホールで待たされながら、真実子はイラついて下りのボタンを数回続けて押した。  いったい、こんなに真面目に仕事をしたところで、何か見返りがあるだろうか。それに英会話に精を出したところで、英語を使う機会なんてないかもしれない。  やっていることがすべて、急に虚しく思えてくる。  エレベーターは上から降りて来るようだったが、いやにのろい。やっとドアが開き、乗り込もうと足を踏み出しかけて、真実子は、あっ、と声にならない声をあげた。  中にサカキが飄然と一人で立っていたのだ。  思いがけない彼の出現に、身体は金縛りにあったように立ち尽くしてしまい、足が動かない。数秒間が数分間、いや数時間のように感じられた。  真実子は彼を真正面から見つめ、彼も真実子を瞬きもせずに真っ直ぐに見ていた。時間が凍結してしまい、DVDの画面を静止させたかのように、彼は表情を変えなかった。  そして、放心している真実子を締め出すように、エレベーターのドアが眼の前で唐突に閉まった。  しばらくして頭が再び回転を始め、しまった、という後悔の念に襲われた。  こともあろうに、せっかくの大チャンスを逃した失態に、胃が鈍く痛む。下りのボタンを忙しく押してみたけれど、どうやら上がって来るエレベーターを待つしかないらしい。  ずい分待たされてからエレベーターがやっと到着し、真実子はあわてて飛び乗った。一階ロビーに到着し、走って正面玄関にたどり着いたところ、扉は閉まっている。
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