第3章 偶然の出逢い

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 夜間は正面の出入口は閉鎖されていることを思い出し、急いで踵を返して裏口に廻った。  重い鉄の扉を押し開けると、冷たい外気が頬をなぶった。  通用路を抜け、ビルの正面に出て眺め廻してみたが、通りのこちら側にも反対側にも、人影はない。未練のあまり、真実子はもう一度ぐるりと周囲を見渡し、誰も、人っ子一人いない、という事実を認めざるを得なかった。  彼はまたしても風のように消え去ってしまったのだ。  あの時エレベーターに同乗していたら、という後悔が胸をぐさりと突き刺す。あの時彼に一声かけていたら、あの時彼に向かって微笑んでいたら・・。  デクの坊のごとく突っ立っていた自分は、間抜けに見えたに違いない。  昼間は往来の激しいオフィス街も夜は閑散としており、街燈の灯りと黒々とした街路樹が整然と連なっているのみ。  逢いたいと願っていた男に鉢合わせる、という幸運にやっと恵まれたのに、愚かにもその運を棒に振ってしまった。これでは、まるで自分で縁を壊しているようなもの。なぜこうも不器用で、反射神経が鈍いのだろう。  取り返しのつかない失敗に心が重くなり、真実子は自分でもあきれるほど落胆し、頭をうなだれた。  足元を見つめ、今日はいてきた靴のせいかも、とふと思い当たる。  黒いバックスキンのヒールは三年ほど前に買ったもので、踵が低めで、丸みを帯びたデザインがいまいち気に入らない。  自信を持てるヒールをはいていない日には、良い事なんて起こるはずがなく、幸運をも逃してしまうらしい。気分が滅入っているからといえ、靴に八つ当たりしてみても仕方ないけれど。  溜息を洩らして顔を上げた時、ビルの影からまるで魔法で呼び出したみたいに男が現われた。  まさしく彼だった。  サカキは煙草をくわえており、唇の端をわずかに持ち上げてニヤリとした。 「何か、探しているの?」  初めて聴く彼の声は、低くてちょっと鼻にかかった甘い響きがあった。  彼のことを考えていた矢先の本人の出現に、真実子は狼狽を隠せない。 「いえ、何も・・」  どう言葉を継いだらいいのかわからずに、焦りばかりが込み上げてくる。    サカキが口を開いた。 「はじめまして、じゃないですよね?」  その台詞に勇気づけられ、真実子は意を決して彼に近づいた。靴のせいで弱気になっている場合ではない。
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