第1章 シンデレラの靴

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 朝の陽射しを浴びて、坂井真実子は思わず眼を閉じた。  頬に触れるひんやりとした空気には、すでに秋の気配が感じられる。  閉じた瞼の裏に光が踊り、今日は何か良いことがありそうな、清々しい軽やかさが胸に沁みわたってきた。月曜日の朝にこんな爽快な気分になるなんて、珍しいことだ。  うっすらと瞼を開けると、井の頭自然文化園の鬱蒼とした樹々の梢に、朝のレモン色の陽光が燦々と振り注いでいた。  早朝出勤のために早起きをして、眼を醒まそうとパジャマのままでベランダに出たのだけれど、頭はまだぼんやりしている。  あくびをかみ殺しながら、両腕を力いっぱい天に向かって伸ばし、思い切り深呼吸をした。  すると身体のすみずみにまで元気がみなぎり、今週も一週間がんばろう、という新鮮な意欲がわいてきた。  シャワーを浴びてから、裸体と頭にバスタオルを巻いたまま鏡の前に立ち、急いでメイクする。  小顔だという以外、これと言って取り柄のない顔。先月ついに二十九歳の誕生日を迎え、サーティーサムシングも目前だ。  肌のくすみが気になり、ファウンデーションを少し上乗せした。髪にドライヤーをあてると黒髪の艶が増したように思え、鏡の中の自分に、これでよし、と活を入れる。  今日はお気に入りの白いジャケットに、ベージュのスカートを合わせて会社に行くことにしよう。  服を着替えて玄関の靴棚からパンプスを取り出そうとして、新しい白いハイヒールが、箱に入ったまま隅にしまわれているのを思い出した。  七月の香港旅行の際に衝動買いしたけれど、実はまだ一度もはいていない。  白いエナメル革の靴は、ティアドロップ型の切り込みで、甲の部分がレースのように縁取られ、蝶々結びの愛らしい革リボンがついている。  細いヒールはシルバーのメタル、靴の内側も銀色の革、という洒落たデザインに一目惚れした。  セールとはいえ値段が怖しく高かったけれど、「これはまさに私に買われるのを待っていた靴だ」との心の囁きが聴こえ、大奮発したのだった。  その時は、無駄使いを促す悪魔の囁きなのか、運命の女神の声なのか、定かでなかったけれど。  ヒールが九センチと馴れない高さの上、ぴったりするサイズがなく、大きめな靴を買ったものだから、いささか歩きにくい。 
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