第1章 シンデレラの靴

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 この「勝負靴」をはいて、魅力的な男と夏の夜風に吹かれてデートすることを夢見ていたのに、そんな機会が訪れることもなく、夏は終わろうとしている。  高い値段を払った「夢」を靴棚に眠らせておくのはもったいなかったし、9月なら、白い靴もそう場違いには見えない。  迷ったけれど、新品の白いヒールを思い切って通勤用におろすことにした。  真実子が借りているアパートは、井の頭公園自然文化園の裏、御殿山の住宅街のはずれにある。  いつもは早足で歩く自然文化園沿いの細い小路を、今朝はそろりそろりと足元を気にしながら歩かざるを得ない。  新しい靴は革がまだ硬いので皮膚がすれて痛くなり、馴れない高いヒールのせいで、つんのめりそうになる。  洒落た靴をはいているのだから、ファッション・モデルのごとく背筋を伸ばして闊歩すべきなのに、どうにもうまく歩けない。  痛む足を引きずりつつ、不恰好な歩き方で、ようやく吉祥寺駅にたどり着いたのだった。  早朝出勤してやり残した仕事を片づけるはずだったが、のろのろと歩いたせいで、会社に着くのは八時過ぎになりそうだ。  ホームに入って来た中央線に靴を気にしながら乗り込み、足手まといなピンヒールが恨めしくなる。  いつもは始業時間ぎりぎりに会社に駆け込む真実子だが、世の中には朝早くに出勤する人も多いらしい。  寿司詰めのラッシュアワーほどではないにしろ、車内は他の乗客と肩を触れ合うほど混雑してきて、押されて電車の中ほどに移動した。  吊り革をつかんで睡魔と戦いながら、ハイヒールを何気なく見下ろし、香港の繁華街、尖沙咀(チムチャッツイ)の街角に座っていた手相見を思い出した。  良く当たる、と評判の手相見だそうで、どこにでもいそうな普段着の老婆だったが、現地の旅行代理店に勤めている友人に広東語を通訳してもらった。  高名な手相見は口数も少なく、真実子が差し出した右手をしばらくじっくりと眺めると、「心が彷徨っているけれど、じきに夢見ている人に出逢う」というようなことを言ったらしい。  いつ結婚できるのか、とかもっと具体的なことを尋ねてくれと友人に頼むと、老婆は真美子の手相を指でなぞりながら、「夢を招き寄せる運が出ているから、心配しなくていい」とだけ答えてくれた。 「夢見ている人」というのは誰を意味するのだろう。
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