第1章 シンデレラの靴

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 三十代ぐらいの若い男で、日灼けした端正な顔が意味ありげに浮かべた魅惑的な微笑に、思わず息を呑んだ。まるでその瞬間に時間が止まってしまったごとく。  男があっという間に背中を向けて背広の波間に消えた後も、真実子はハイヒールを胸に抱えたまま、ただ茫然と突っ立っていた。  瞼に焼きついた彼の面影に、今になって、遅ればせながら見惚れている。  我に返り、ヒールをはき直して混雑するホームの階段に向かいながら、先ほどの親切な男に礼を言い忘れたことを後悔した。  せっかく靴を拾ってやったのに、一言も感謝しない無礼な女だ、と思われてしまったかもしれない。  それに、自分のために混んだ電車に果敢に駆け戻ってくれた男の名前を、訊きそこねてしまった。  どうしてこんな大事なことを、なんでさっき思いつかなかったのだろう。  丸の内にあるオフィスに向かいながら、考えれば考えるほど自分の愚鈍さが悔やまれた。  真実子が勤めているのは東邦電信という新興企業で、丸の内にある高層インテリジェントビルの中にオフィスを構えている。  先ほどまで精神集中してパソコンに向かっていたのだが、資料を仕上げて会議に向かう課長に渡し終えると、今朝の駅での一抹が脳裡に鮮明に蘇ってきた。  一瞬見かけただけの男の顔を、もう一度瞼に思い浮かべてみる。  さらりとした髪を真中ぐらいで分けて、男らしい太い眉の下の瞳が綺麗だった。  振り向いた彼が微笑を浮かべ、外人みたいに片目をつむってみせたとたん、胸がまるでキューピッドの矢に射抜かれたようにどきりとし、一瞬、息が止まった。  駅の雑踏の中に立ちすくんだまま、あたりの光景が凍結し、心の琴線が共鳴してキュンと鳴り響いたのを、確かに聴いた。  数表作りのような単純作業をこなしていると、手はボードのキーを間違いなく打ってはいても、頭の中では駅での出来事を幾度となくプレイバックしてしまう。  男にこういう礼を言うべきだった、とか、ああいう挨拶をすべきだった、とか。  今になってあれこれ思い描き、空想の中では、彼がそれに応えて端正な顔に笑みを浮かべ、親密な表情を返してくれる。  でも実際は彼を見つめて息を呑むばかりで、魔法をかけられたかに、立ちすくんでいただけだ。愛想とか礼儀とかホームの雑踏をすべて忘れ去り、一言も発することができず。  
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