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「今日の掃除当番はあなたです。あなた、一人です」  薬指をピンと伸ばして女子生徒を指差す。その独特の指差しが示すのは決まって生徒へのペナルティだ。 「……はい。分かりました」  ここで黙っていたらペナルティが追加されてしまう。掃除当番はまだ優しい方である。矢田の機嫌が良かったことだけが彼女にとっては不幸中の幸いだろう。 「おはようございます」  粘着質な声は、聞いているだけで梅雨時の湿り気が身体にまとわりついてくるような錯覚を覚えさせる。 「全員いますね」  口の動きはほとんどない。最後列の生徒はより一層聞き耳を立てなければいけ ない。このクラスは一番後ろの席が不人気である。先生の声が聞こえませんでした、のペナルティを最も喰らいやすい席だからだ。 「今日の私は機嫌が良いです」  矢田の機嫌は、言われなくても服装を見れば分かる。上下ジャージという、いかにも生徒指導にあたる体育教師という出で立ちだが、発せられる声は小雨のように勢いがない。そのギャップに異質さを覚える。園村は息を呑んだ。矢田を見ているといつも思う。この教師は本当に人間なのだろうかと。獣じみた大きな身体。蚊の鳴くような声。湿り気を帯びた不快な音の振動。得体の知れない生物を目の当たりにしているような、言いようのない不安感が足元から沸き上がってくる。その不安で震えそうな身体を懸命にこらえる。ここで動いたら、ましてや椅子に座ろうものなら、いくらでも座っていればいいと、一日中着席を強いられることになってしまう。他の生徒たちも起立したまま動かない。矢田がいる教室では、着席という号令はない。  ジャージの色は青だった。矢田の機嫌は信号と同じだ。青は進め。赤は止まれ。 「なぜなら、いじめがゼロのクラスは気持ちが良いからです」  青は上機嫌。赤は不機嫌。矢田は口元を曲げずに笑うという奇妙な表情をして生徒達の背筋を凍らせた。上機嫌と言っても、生徒達の態度一つで色は変わる。信号のように。短気で聞き分けのない幼児のように。
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