第15楽章 別れの曲

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でもそれは堕落だ。 破壊的行為だ。 そんな偽りの恋愛の先に、幸せが待っているとは思えない。 日々快楽と共に失っていくものは、遠子さんに対する恩や信頼だけではない。 人としての良心さえも失いそうで怖かった。 大きな爆弾を背負い込みながら、杏樹と笑い合って生きていく自信がない。 大切にしたいと思うからこそ、杏樹を不幸にはさせたくなかった。 杏樹はきっと、気付いてはいない。 俺がどんなに杏樹を抱きしめたいと思っているか。 好きな女と同じベッドで寝て欲情しない男などいない。 どんなに俺が我慢しているか。 杏樹は全く分かってはいない。 だから無性に苛々してしまう。 杏樹が家にいると嬉しい反面、とても苦しくもなる。 更に悪いことに、コンクールが近付いてきて、思い出したくないことがフラッシュバックされる。 堕ちていくのは居心地がいいものだ。 考えることを止めて、世間から目を背けて。 それはとても自由で、楽な生活だ。 一度、とことん堕ちたことがあるからこそ、もう二度とあの世界には足を踏み入れたくない。 今の生活だって、人に自慢できるようなものじゃない。 それでも俺は、覚悟を持ってこの生活をしている。 恥じてはいない。 これがピアノを続けるための最善の策だと思ったからだ。 ピアノのためなら何を捨てても構わない。 そう思ったから、この生活を続けてきた。 俺にとって、何よりもピアノが一番で、ピアノが生きる目的だ。 ピアノのない人生は、喜びも悲しみも薄っぺらいものとなる。 そんな世界は、地獄でしかない。 ――五年前、俺は全てを失った。 俺は一度死んだも同然だった。 五年前の、ショパンコンクールオーディション予選日に。
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