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俺は眉根を寄せて、ピアノの音色のする方向に顔を向けた。
そこはガラス張りの楽器店だった。
一階にピアノが数十台置かれ、二階には弦楽器が置かれている。
試弾できるらしく、客がでたらめにピアノを弾いていた。
俺は吸い込まれるように楽器店に入っていった。
久しぶりに間近で見る漆黒のピアノ。
指の腹で冷たい側板を撫でるように触ると、胸の奥の眠っていた熱い塊がざわざわと騒ぎ始めた。
……弾きたい。
湧き上がってきた気持ちは、欲求ではなく、もはや衝動だった。
突き動かされる抑えられない衝動。
ショパンコンクールのオーディション予選日から、俺はピアノを弾けなくなった。
手が震えて、指先に力を入れることができなくなったのだ。
もう二度とピアノを弾くことはできないと思っていた。
でも今なら……弾ける気がした。
ピアノの椅子に座り、白盤に指を乗せた。
指先の震えはない。
人差し指に力を入れて白盤を押すと、ポーンと高い音が響いた。
五本指をゆっくりと確かめるように一本ずつ動かすと、それに応えるように音が鳴った。
よく調律されている、いいピアノだった。
曲を弾きたくなった。
何を弾こう。
俺はふと、天井を見上げた。
何百もある記憶しているレパートリーの中から選んだ曲は『別れの曲』
あの日から俺の中で時間が止まっていた。
再び時間を動かすとしたら、この曲から始めたい。
母を俺の演奏で弔いたい。
練習曲 ホ長調作品10‐3 『別れの曲』
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