第15楽章 別れの曲

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「どうかした?」  話し掛けてきた女性は、目を見張り驚きに青ざめている俺を見て、可愛らしく小首を傾げた。  よく見れば全くの別人だった。 ただ、目の形とか髪の毛とか、笑い方の雰囲気が若い頃の母に似ているような気がした。 けれど、そっくりというわけではなく、どうして死んだ母が甦ったと思うくらい似ていると感じたのか不思議だった。 きっと、母のことを想って演奏していたから、錯覚を起こしてしまったのだろう。 俺は単純にそう考えた。 「いえ、なんでもないです」 「あなた間近で見れば見るほど綺麗な顔をしてるのね。どう、私の店でピアノを弾かない? 報酬は弾むわよ」  職も住む所も失っていた俺には、この誘いはまさに地獄から垂れてきた蜘蛛の糸のようだった。 しかもその糸は、ピアノ線と繋がっている。 俺は夢中でその糸を掴んだ。  話し掛けてきた女性の名前は遠子といい、旦那の金で何不自由なく暮らす専業主婦だった。 傍から見れば自由で恵まれた環境のように見えるが、遠子さんは孤独を抱えていた。 子供もいない、旦那は仕事で忙しく、時間とお金と美貌がある遠子さんは、内に燃えたぎる女の情欲を抱え込み苦しんでいた。 世間はそれを甘えと呼ぶだろう。 しかしその孤独と飢えた欲望は、人を不幸にさせるには十分なものだということを、俺は知っていた。 衣食住が足りる生活が万人にとって幸せと言い切ることができるだろうか。 俺はそうは思わない。 ピアノがない生活は死も同然だ。 遠子さんの場合は、愛がない生活は何よりも不幸だった。 だから俺は、遠子さんに偽りの愛を捧げ、その代わりに遠子さんは俺に住む場所と職を与えてくれた。 人にはそれぞれ幸せのかたちがある。 世間の偏った倫理観に支配され、生きたまま死を味わうより、俺はピアノを続けることを選び、遠子さんは愛を選んだ。 ただ、それだけのことだった。
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