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俺はピアノの椅子に腰かけながら、杏樹が出て行ったドアを見つめながら過去のことを思い起こしていた。
何かが自分の中でプツリと切れた気がする。
ピアノの弦が切れるように、唐突に前触れもなく。
無理をしていたのだろうか。
俺は間違えた道を歩いていたのだろうか。
なにが大切で、なにが大切じゃなくて、失っていいものと、失ってはいけないものの区別がつかない。
分からない。
杏樹を遠ざけて、傷付けて、これで良かったのか。
悪かったのか。
どうしたらいいのかが、分からない。
頭の中で『葬送行進曲』が鳴り響く。
不気味で重たいあのメロディーが頭の中で轟(とどろ)いて、冷たく暗い墓地の中に佇んでいるような心持ちになった。
頭を振っても、目を瞑っても、開けても、頭の中のメロディーは止まらない。
そのうち、漆黒のピアノが、墓碑に見えてきた。
ベージュのフローリングが、湿り気を帯びた土に変わっていき、慄然(りつぜん)とした。
幻想と現実の区別が曖昧になりだして、恐ろしくなった。
突然、土の中から白い手が出てきて、俺の足を掴んだ。
悲鳴を上げそうになるのを必死で堪え、これは幻覚だ、土なんかない、手が出てくることなんかあり得ないと自分に言い聞かせ目を瞑(つぶ)った。
足先から恐怖が昇ってくる。
幻覚のはずなのに、冷たい手の感覚がするような気がして恐ろしくなった。
ゆっくりと目を開けると、俺の足を掴んでいるのは、母だった。
母が、土の中から這い出て俺の足を掴んでいる。
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