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洵はそのままピアノの椅子に座り、鍵盤蓋を開けた。
「そんな状態で練習なんか無理よ」
洵は私の言葉を無視して、鍵盤に指を乗せる。
洵は『葬送行進曲』を弾いた。
陰鬱で重苦しい序奏の部分のみを切り取って繰り返し弾く。
闇夜の墓碑の下から亡骸がゾンビのように這い出てきて追いかけられるような、恐ろしい気分にさせられる。
「洵、その曲やめて」
洵はまたもや私の言葉を全く無視して、鍵盤に顔がつきそうなくらい猫背になりながら、何かに憑りつかれたかのように『葬送行進曲』を弾く。
私はその様子を、ただ茫然と立ち尽くしながら見ていることしかできなかった。
洵は最近『葬送行進曲』を好んでよく弾く。
洵の今の心境に合っているのか、突然思い出したかのように『葬送行進曲』の一番暗い部分だけを狂人のように激しく弾いたり、ゆっくりと物思いに浸るように弾いたりする。
「ねえ洵、今日はもう休みましょう」
私は洵の肩を優しく抱いて語りかけた。
洵は一音一音噛みしめるように、ゆっくりと指を動かす。
聴いている私まで気が滅入りそうだった。
「ねえ洵、エオリアンハープを弾いて。明るくて軽やかな曲」
すると洵は『葬送行進曲』を弾くのを止め、『エオリアンハープ』を弾き出した。
指が軽快に動き、部屋の空気を一変させる。
私は洵を後ろから抱きしめ、大きな背中に耳を押し付けて、洵の演奏する『エオリアンハープ』を聴いていた。
二人だけの世界。
とても安心する。
洵がいれば、他には何もいらない。
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