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「そんな状態だから、洵の演奏は聴けないかもしれないんだけど……。どうする? 入る?」
私は一呼吸置いてから「入ります」と力強く言った。
ここで帰るわけにはいかない。
女としての意地もあるし、なにより洵のことが心配だった。
私に会って、洵の何かが変わるとは思えなかったけれど、遠くからでも、伝わらなくても応援したかったのだ。
遠子さんの後ろに続いて店の中に入ると、カウンター席の内側でグラスを拭いていた優馬が驚いた顔をして私を見た。
そのままいつも通りカウンター席に向かおうとすると、遠子さんに止められた。
「テーブル席で一緒に飲まない? ご馳走するわよ」
私は首を振って断った。
「いいえ。一人で飲みたい気分なので」
「そう、残念だわ」
遠子さんは言葉通りとても残念そうな顔をして、テーブル席へ歩いていった。
どういうつもりなのだろう。
前に一度店で会ったとはいえ、会話するのは今日が初めてだ。
洵と私の関係を知っているのだろうか。
洵が喋った?
まさか、あの洵が自分から話すなんてあり得ない。
やっぱり前に会った時に勘付いたんだ。
凄い直感だ。
でも私も、遠子さんを一目見ただけで、洵とただならぬ関係であることを感じた。
女の第六感は、どうしてこんなにも研ぎ澄まされているのだろう。
好きな人のことになるとなおさらだ。
ただ二人の間に流れる空気や、相手を見る瞳を見るだけで分かってしまう。
洵が初めて「遠子さん」と名前を何気なく出した時に、肌に砂塵が纏わりつくような嫌な胸のざわつきを感じた。
声のトーンや言い慣れたかんじ。
名前を呼ぶ時に、情のようなものが自然と込められているような気がしたのだ。
きっと遠子さんも、私達を見た時、同じような何かを感じたのだろう。
女にしか分からない、理屈では説明しきれない感覚を。
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