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「洵……」
私が小さく名前を零すと、洵はゆっくりと振り返り、私を見据えて軽く微笑んだ。
どうしてすぐに、洵が演奏しているピアノの音色だと気付かなかったのか。
それは、ここに洵がいるはずがないという先入観が邪魔したわけではない。
私は何度も洵の演奏を聴いている。
だから洵が紡ぎ出すピアノの音色は、耳と心の奥深くにしっかりと刻み込まれている。
それなのに、この演奏が洵によるものだと気が付かなかった。
それは決して音を忘れていたからではない。
洵のピアノの音色が変わっていたのだ。
以前の洵の演奏は、鬼気迫るものがあったり、圧迫感だったり、それはそれでとても魅力的で迫力あるものだったのだけれど、洵自身の心の葛藤が音に反映されていた。
しかし、先程の演奏は余計な力が何も入っておらず、すんなりと心に染み入ってくる。
今までは洵自身が主役だったのが、音が主役になり、音が単独で世界観を作り上げているような、そんな演奏だった。
そして、洵自身も変わっていた。
前の洵は、少し幼さというか生意気さというか、思春期の男の子のような繊細で尖った部分が見え隠れしていた。
しかし、今目の前にいる洵は、とても落ち着いている。
それに、今の洵はただそこにいるだけでフェロモンが溢れ出ている。
しかも以前よりも濃密な大人の色気だ。
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