4人が本棚に入れています
本棚に追加
/7ページ
熟れた果実の傷ほど、痛々しいものはない。
冷蔵庫から取り出した、黒く変色しかけた桃を片手に舌打ちをする。
握っただけでも数日後には、痛ましい痣を付ける。
夏の匂い。
朽ちかけた甘い匂いが部屋を満たしていく。
「あーぁ、勿体無い」
まだ食べられる。
そう思い直し、黒ずんだ部位を親指で掻き出す。
深く沈んでいく親指の感触と、想像以上の桃の柔らかさに眉間に皺を寄せる。
と、同時に余りにも奇妙で暴力的な愉悦が芽生え、無意識に浸りそうになる。
くり貫かれた桃から、腐臭混じりの果汁が滴り、手首を伝い流れる。
更に甘い臭に包まれる自分自身。
腕を伝い、床に滴り落ちるのを茫然と眺めながら、恍惚と嫌悪、相反する思考が頭の中を支配していく。
そして唐突に思い出した盲目な幻想に浮き足立っている自分がいた。
熟れた唇と官能的な体臭。甘く、熱く、ほろ苦い桃のカクテルに満たされた秘密の蜜月。
「はっ、下らない」
もう終ったこと。そう呟きその物を、無造作に生ゴミに投げ棄てる。
その分、何かから解放された気がした。
「さて、ハネムーンの準備でもしますかね」
よっ、としゃがんでいた膝を伸ばし冷蔵庫の扉を閉める。
冷蔵庫に貼られた、もう使うことのない、一枚の航空切符が目に入る。
「もう、振り返らないから」
震える声で囁く。微かに微笑んでから、ゆっくり破く。
甘い臭から解放されたくて窓を開ければ、爽やかな風が頬を撫でた。
最初のコメントを投稿しよう!