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「やあ、どちらに行ってました」
「デュッセルドルフとパリ。あなたはどこへ行かれたの」
「アルゼンチンの南端です」
「なかなか一緒にならないわねえ」
こぼれる笑みがアジア風の丸顔、童女の頬にあふれて千春わずかに流し目を見せる。安倍はブランド品の詰ったトランクを押し駐車場へ向う。個人輸入をしている千春の稼ぎで暮す安倍には当然の労働だ。清原にも東京まで送って行こうと同乗を勧めた。ボロ車を嫌がる清原ではあったが千春が腕を取ると缶ビールを手に後部シートに納まった。千春は知らないけれどこの車の車検シールは偽造であり走行メーターも戻してあるのを清原は知っている。去年安倍は千春に貰った車検費用を私事に遣い、その間、車は清原のもと置かれていた。
安倍は車のボロさ加減が好きだった。突然滑るクラッチなど身震いするほどの快感だ。カーブの途中でセンターラインを越えそうになり、真顔の清原をミラーに見てほくそ笑んだ。オヤジ風に女の膝へ手を置くぐらいしてやれよ、とは内心の言葉。賭けに勝ったとたん心はすでに清原の妻、真理子にある。
「オウムはどうなってる」清原が尋ねた。
「バカテレビが毎日、教祖を出せって合唱してるよ。あいつらテメエが警察か裁判官気取りだからな。じゃあアサハラが出たら何を聞くってんだ。んなもの知らねえと答えりゃすむことばかりだろう。桜吹雪や印籠で畏れ入ると思ってんのか、アホが。教祖に自白を強制するよりサリンの残りがどこにあるかが大事だろ。だいたい宗教と犯罪行為は区別してもらいてえ。どうせテレビ局など何言っても無駄だろうがよ」
安倍はワイドショーやニュースに出る人達を一人ずつこきおろした。千春が帰った日は必ず寄るお好み焼きの店に入っても話は続き、テレビコマーシャルを作る清原がその愚かなテレビ関係者だと当てこする。作品完成で優位気分の安倍であった。しかしその話は千春がいて出来ない。
「あした、どっかで飲もうか」
「フィルムの整理があるんで一週間は忙しい」
「個展には来るだろ、水木金だ」
「そうか、金曜に行こう」
清原は翌日、便器メーカーの社長と夕食を共にし安倍そっくりにテレビの悪口を聞かされた。破滅芸術家の安倍と違い社長は還暦を向えて本来温厚な人物である。清原の出世作となったコマーシャルを撮って以来十年のつき合いになるが皮膚の厚い顔を底から赤黒くさせて怒っている。
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