福島、会津若松へ

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父が倒れてから、こんな状況がしばらく続いているのだ、私は母と父のフォローもしなければならず、もう一人では精神的にも肉体的にも限界に近かった。 だから、もし、もう一人兄弟がいたら?と考えてしまったのだ。 でも、もう二度と言ってはいけない事なのだということを肝に命じたのだった。 その日、どうやってあの後、布団に入ったのか?記憶に無いのと、やはり朝まで眠る事が出来なかったこと、 一応母には、平静を装い我が家へ帰り、そのまま自分の布団に潜り込んだ。 そして、やはり自分の居場所は「ここなんだ!」と強く思ったのだった。 しばらく母に会いたくなかった。 母もきっと、それを察したのか、父の一般病棟への手続きを進めていてくれた。 そして、数日後、私と母は会津若松城の近くの旅館に泊まり、いよいよ一般病棟へのお引越しの日、親しくなった看護師さん達にご挨拶、でも、何か?ためらう様な雰囲気がちょっと気になった。 一般病棟に案内され、荷物を指定の場所に整理して入れ、帰りの電車の時間があった為、サッサと片付けて帰った。 この時は周りの状況を見る余裕が無かった様で、どの様な場所であるのか分かっていなかったのです。 それから数日その間は母が行ってくれたので、おかげで少し私は休む事が出来た。でも、その晩に行った母から電話があった。 「とんでもないよ!あれじゃ・・・」と 次の日、私も行ってみると、隣のベッドの間は30センチも空いてないぐらいで、ここはどの様な病棟なのか? 脳疾患専門の患者さん達らしく話しが出来る人はいない様だった。 そして、オムツの交換が決まった時間にまとめて行なわれているらしく、私はとてもそこに居る事が出来なかった。 多分、寒い地方特有の脳疾患専門病院だった為なのか? 手が足りていないのに、患者さんはどんどん入って来ている様だった。 正直、過ごしやすくなると思っていたもくろみは見事にハズレたのである。 父は、前にもまして、「帰る!」と言いだし。 私も更に行くことが億劫になったのだった。 やっと急性期病棟の看護師さん達の雰囲気の意味が分かった様な気がした。 より、福島を遠く感じていた。
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