深夜

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声が聞こえる。蜻蛉の羽音のような声。 声の主は、佐竹だった。 「頼む。殺さないでくれ。あんたが誰かは聞かない。命だけは。頼む。生きていたい。まだ生きていたいんだ。だから頼む」 巨乳女が泣いている。さっきまで欽田政夫組長だった肉塊にすがり付き、両手で揺さぶりながら泣いている。それを目の端で捉えながら、佐藤マモルは回転弾倉式コルト1917を佐竹の眉間に押し付けた。 「やめろう。やめてくれえ」 佐竹が、泣いている。身長百八十五センチ、体重百キロ以上はありそうな強面の巨漢が、年甲斐もなく泣いている。 声が聞こえる。兄弟分の声が聞こえる。 迎えのクルマ、黒塗りのクラウンの窓から兄弟分がふたり顔を出し、佐藤マモルを呼んでいる。 「おい、ササキ、何やってんだ。早くずらかるぞ。ササキ、ササキ、早く乗れ」 ――ササキ。 ああ、身代わり出頭してくれる笹木か。笹木の犯行に見せかけるアリバイ工作のひとつなんだろう。頭の切れる若頭の松平の指示で、兄弟分達はササキの名を連呼しているのだ。 佐藤マモルは、冗談というものが嫌いだった。拳銃を撃ち尽くして弾倉が空っぽなのをわかった上で、敢えて引き金を引いて脅かす。そんな真似は、悪ふざけ以外の何物でもない。何故だか、今夜に限って、それをやろうと思った。どうかしている。 命のやり取りをした真剣勝負の相手を悪ふざけで脅かす真似は、どう考えても「下らねえ」行為だ。だから、思いとどまった。その代わり、ただ一言だけを佐竹に言い残した。それから、クラウンの後部座席を目指して走り出した。 「殺るかよ」 見かけ倒しのおまえなんか殺るかよ。とは、言わなかった。ただ一言、「殺るかよ」と言い残した。 後部座席めがけ、頭から滑り込むようにして乗り込んだ。佐藤がドアを閉める前に、クラウンは急発進した。クラウンが、赤信号を突っ切った。 「人殺し。絶対死刑にしてやる」 女の絶叫が、両耳の間を這いずり廻った。 女の声が、いつまでも耳の奥に残り続けた。
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