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(あ……結局何から弾くかまだ決めてない。)
今にも演奏が始まるーー。
そんな空気の中で、はたと沙友理は思った。
どうやら、実は結構緊張していたらしい。
だが、考え込んでいる暇はない。
ちらと視線を上げれば、先程の青年と目が合う。
ステージと平行して置かれているカウンター席で、わざわざ体全体をこちらに向けている。
期待に一杯の眼差しに気付いた時、沙友理は反射的に弓を動かしていた。
紡ぎ出される、柔らかな音。
何の旋律を無意識のうちに弾いてしまったのか気付いた瞬間、沙友理の腕が止まりかけた。
(ああ……最悪。)
何とか自分を律して演奏を続けるが、浮かんできた重く暗い気持ちは消えない。
沙友理が弾き始めた曲は、とある映画の主題歌だった。
昔々、ある所に傲慢な一人の王子がいた。
彼はその傲慢さ故に、ある日魔女によって野獣の姿へと変えられる。
その魔法は真実の愛を知るまで解けないと知り、彼は醜い姿に絶望するが、やがて一人の娘と出会う。
野獣と娘は共に過ごす内に、互いに心を開くようになりやがて、愛を知ることとなる。
そして、野獣は彼女の愛のおかげで、元の姿に戻ることができ、二人は永遠に幸せに暮らした。
そんなストーリーの映画で、この曲は主題歌であり、また劇中で二人が手を取り合いダンスをするシーンで流される。
柔らかな木管楽器の調べは美しく、その旋律は胸を震わせる。
そして、テーマは『愛』。
(この曲が、私は大好きだった。……だけど、それは昔のこと。)
その旋律を何度も口ずさみ、ヴィオラ用に書かれた楽譜で何度も演奏した。
旋律も調子も歌詞もテーマも、全てが好きな曲だった。
だが、それは昔の話。
(愛なんか……いらない。)
内心そう吐き捨てながらも、沙友理はヴィオラを奏で続ける。
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