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春。
それは、はじまりの季節。
厳しい寒さも和らぎ、ほころび始めた桜の蕾と、既に花開く梅の花が、まるで祝福を与えるかのように香を放つ。
青空に映えるその鮮やかな色は、見るものに幸せを運んでくれるような気さえする。
ーーそれこそが、春のはずなのに。
「……寒い。」
玄関の扉を開けた瞬間、有坂沙友理(ありさかさゆり)はそう呟かずにはいられなかった。
それもそのはず。
彼女の目の前で踊るのは、柔らかな花弁ではなくーー白い粉雪。
何者にも汚されない白は、確かに美しい。
美しくはあるのだがーー
「寒い。」
先程と同じ言葉を繰り返さずにはいられず、呟いた沙友理は一旦扉を閉めてしまった。
(いや、だからってバイトを初日から休む訳にはいかないんだけどね。)
時は四月の初旬。
間違いなく冬ではなく春の月のはずだが、朝から降り続くのは雨ではなく雪。
気温が低いとは思っていたが、雪まで降るとは思いもしなかった。
「さすが雪国……。」
そう呟いた沙友理は、先月この日本海に面する地域に引っ越してきたばかりだった。
有坂沙友理、なりたての大学院一回生。
今時珍しい染めたことのない黒の長い髪をマフラーの中に押し込め、鼻の下まで同じくマフラーの中に隠している。
縁の細い眼鏡の奥には、二重の少し大きな目。
黒の瞳は髪よりも少し明るい色。
二十三歳にはなったが、それよりも少し幼く見える自身の顔を気にする沙友理は、尊敬する教授の下で勉強するために、慣れない地に一人でやってきたのだ。
元々は温暖な地域に住む沙友理。
覚悟はしていたが、さすがに四月にもなって雪が降るとは予想できず、あまりの寒さにいささか絶望していた。
(まあ、実家から離れられたのはよかったんだけど……。)
そんなことを考えながら、はたと頭を振る。
「だめだ、本当にバイトに遅れる。」
入学式も終わり、沙友理は生活費を稼ぐためにバイトを始めることにした。
親からの仕送りはあるが、そればかりを頼りにしていたくない。
そして先日無事に喫茶店でのバイトが決まり、今日は初出勤日。
初日から遅れるのは印象が悪い。
「行かなきゃ。」
自分自身に気合いを入れ、沙友理は、背に担ぐケースの重みを感じながら、玄関の戸を開けた。
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