恋へ狂へ わななけ雄蝉 命果つまで (字余、乃至異形式)

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<季題> 蝉(雄蝉) <季節> 夏、晩夏を念頭に 恋ふ: この句における「恋」は即ち、「実存概念的『象徴』」かつ「事象概念の『延長』」。 人間一般に見られる(性別不問の)恋愛、即ち英語における「romantic love」が「性概念」全般を象徴する、と解釈すべし。同時にその基礎は「生殖」にこそあり、これを延長拡大した概念、と解釈すべし。 狂ふ: この語は最早単なる象徴に止まらず、実際の事象となっている、と推察できようか。街灯に体内時計を狂わされ夜中に鳴き出す者、不自然な低空飛行の挙げ句人の衣服にしがみつく者等、見聞経験したことはあるまいか。 わななく: 「戦く」が音便変化した語、との考察もある。 戦くと同様「震える」の意が第一義。この句では特に、音韻上の「(わな)なく」が「鳴く」と呼応する点に留意(ただし掛詞は成さない)。 蝉: 句に示されている通り雄蝉の成虫を指すが、「鳴く」ことを敢えて度外視するならば性別もまた度外視され得、雄蝉の如く恋に狂い戦く雌蝉も指し得るものとする。 命果つまで: 二週間足らずの短い生命はしばしば儚さの象徴とされる。しかし、(生殖を目的とした)成虫のみが蝉ではなく、そもそもの動物個体はその寿命の大半(専ら7年)を幼虫として土中で過ごしているため、命それ自体を主題とするこの句では儚さは重視されない。 むしろ、最期までの僅かな時間を賭して種の存続、即ち生殖即ち恋に邁進する狂おしいばかりの戦慄こそ、着目されるべきだろう。 片歌(旋頭歌): 下句のみで二字余すのは、中句切れで独立する下句の末尾助動詞・接続詞が止むを得ず余ったと解釈しても、この句が非定形でない以上違和感を喚起し兼ねまい。むしろ、季題を持った旋頭歌片歌、と見做した方が自然かも知れない。 旋頭歌とする場合対になる片歌が要るがそれは、「恋(恋へ、恋ふ等)」を上句に含むか、もしくは「生命(生殖や死を通じたダイナミズム)」を主題に置きこの句に対して問答の体裁を採るか、等を満たす必要があろう。
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