百箇日

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百箇日

昨日は母の百箇日でした。 というわけで、金曜日から滋賀に帰ってきています。 以前から、わしも携帯買わなあかんなぁって言ってた父が、ついに簡単ケータイデビューを果たしたらしく、 その時に母のスマホも解約してきてくれたそうです。 いつかは解約に行かねばと思っていたので、なんだか肩の荷が降りた気分になりました。 今回は休日出勤にならなかった主人が、前日の夜行バスで滋賀まで来てくれました。 いつもどおりのお経のあと、お寺さん(うちに来られるのは女性の方です)が少しの御説教をいただいたのですが、 その時の話が、母は亡くなり仏様として、光で照らしてくれているのですよ、という内容でした。 私は、仏教を深く信じるタイプではないのですが、 霊感が全く無いせいか、母が亡くなってから、母を感じることが全くないので、 人は死んでしまったら魂なんかも無くなって、本当の無になってしまうのではないかとさえ思い始めていたのですが、 お寺さんの言葉を聞いたとき、一時期とても流行った千の風になってという歌の歌詞に、光になってという言葉を思い出し、 母は生前、LINEのやりとりで、『アンタのことは母ちゃんが守る』と言っていたけど、死んでしもたらどうやって守ってくれるねん!! などと妬けになって怒りながら泣いたこともあったけど、 お寺さんの言葉のように、母は光になって照らしてくれてるんやと思ったら涙がこぼれました。 その後、みんなで昼食を食べたのですが、その時に父方の伯母がとても印象的なことを言ってたんです。 私と母は、やっとできた一人娘ということもあり、周りが『そろそろ親離れ子離れせなアカン』というくらいベッタリの関係でした。 そんな私たちのことをよく知る伯母が、 『○○〇さん(母)と○○〇ちゃん(私)は仲が良かったで、一生ぶんを二人が過ごしたで親離れ子離れするために早よ別れたんかもしれへんな』 と言っていました。 それまで私は、 『みんなの母ちゃんはいるのに、なんで自分だけ母ちゃん早よ死ななあかんねん』って、悲劇のヒロインのような気持ちでいましたが、 伯母が言うように、一生ぶんを母と過ごしたから、その分別れが早く訪れたと言うのなら、それは悲しむことではないかもしれないと思えたのです。 それは、別れが早いか遅いだけと自分に言い聞かせるよりも、ずっと自然に受け容れることができました。
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