母の死を実感するとき

1/1
前へ
/36ページ
次へ

母の死を実感するとき

季節の流れを感じるときや、一日の終わりを感じるとき、 『あぁ、もう母ちゃんはいいひんのやなぁ。取り返しのつかへん大変な事になってしもたなぁ』 と、しみじみと母の死を実感します。 ほんまに、これがただの悪い夢やったらって何度思ったことでしょう…。 もう、この世で二度と会えないなんて本当に信じられないんです。 一日として母が亡くなったということを考えない日はありません。 父が『なんで母ちゃん死んでまわってんやろ?』と言うときは、決まって『寿命や』って答えるんですけど、 実際、寿命やなんて言っても納得できるものではないのです。 あちこちで様々な手続きを終える事に、公的な場から母の名前が消されていきます。 父と一緒に手続きしてるときはそうでもないんですけど、ふとした瞬間にそれを思うと辛くてね…。 人が一人この世から旅立つというのは、本当に大変な事なんですね。 諸々の手続きにしろ、故人が生前使用していた様々なもの。 そのまま使えるものは使うにしても、全てがそうとは限らないのですから。 下着や靴下なんかがその代表的なものですが、捨てろと言われてすぐに捨てられますか? 私には捨てられません。だってまだ認めたくないんですもん、母の死を。 そりゃあ、いつかはなんとかしないといけないでしょう。 でもまだしばらくは、できそうにもありません。 たんすの中が空になるのが怖いんです。 重くて堅いたんすが、何の手応えもなく閉まるのが怖いんです。 たんすの重みは存在することの重みなんです。 故人のものをいつまでも生前のままにしておくのは良くないと言われるでしょう。 頭ではわかってるんです。 わかってるけど、耐えられないんです。 なんか、一つ一つに母の思いが込められてるような気がして手放せないんです。 この先、どうなってしまうんでしょう…。 できることなら目を背け続けたい、厳しい現実が待っています。 辛い…。
/36ページ

最初のコメントを投稿しよう!

3人が本棚に入れています
本棚に追加