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ある日の稽古が終わり、イコとサキコ、それにイコのマネージャーである笹川は小さな居酒屋に入っていた。
劇場付近の地下鉄から三駅ほど離れた繁華街にある。
三人は決まってそこで飲んでいたし、ここのお通しでもある“シイタケとカブのお浸し”が絶品で、それも通う理由の一つであった。
笹川は、束ねていた髪をおろし、心配そうにイコを見る。
サキコの隣でメニューに視線を落としながらも、思考回路はあらぬ方向へ飛んでいっているかのようだった。
連日、繁谷は“上手く笑え”とばかり言う。
イコに演技を繰り返させ、叱咤するのだ。
待ちぼうけを食らう者が退屈を覚えるほどに時間をかけている。
今までもイコに対して徹底的に厳しかった繁谷だったが、今回はその範囲を超えているようにも思える。
「イコさん何頼みます?」
彼女はメニューを指さすので、笹川は一度しまった眼鏡をかけ直し、定員を呼んで注文した。
四人掛けの個室が、しばらくシンと静まり返り、どこかで耳にした歌謡曲だけが空間を支配していた。
何も知らない女性定員が愛想良く飲み物を運んでくるまで、結局誰も口を開くことはなかった。
「取りあえず、お疲れ様です」
笹川がぎこちなく乾杯の音頭を取り、グラスを合わせるとそればかりが景気よくカチャンと鳴った。
三人の好きなお通しも、今日ばかりは別の味がするような気がする。
そんな葬式の様な空気に耐え切れなくなり、とうとう笹川が先陣を切る。
「イコさん、最近繁谷さんと何かありましたか?」
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