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―ま、そうだよな。
健治は心の中でまた苦笑する。ここで「大沼君だから特別だよ」などと言ってもらえるとは思っていなかったが、それでも心のどこかでそれに類する答えを期待していた。"運命"を後押しするような言葉を欲していた。そんな淡い期待を速攻で否定された気分だった。
「俺にはとても出来ない」の部分は健治の本心だった。健治にとって、駅で行きかう人の顔なんてものは意識して見るような対象じゃなかった。見つけられるかどうか以前に、そもそも見ていないのだ。だって駅で行きかう人なんて、混雑を招き、自分の行く手を阻む障害物でしかないのだから。
普段の生活にしてもそうだ。一般教養の教授なんて名前すら覚えていないし、直接話したこともない。仮に見つけて話しかけたとして、相手も自分のことは覚えていないだろう。
わざわざ走ってきたってのもそう。そんな距離なら人違いの可能性も高いのだ。走ってきて人違いだったら赤っ恥だ。
よく見ると亜紀の肩が上下していた。ただの知り合いの一人である俺の為に息が切れるほどに走ってくるような、彼女はそんな人間なのだ。
彼女と自分は正反対、健治はそんな思いを強くした。やはり住む世界が違うのだ。価値観も性格も、何もかもが違うのだ。
親密になったところで、やがてお互いのすれ違いが決定的になる。価値観がぶつかり合う事になる。最終的にはどちらかが相手を束縛することになり、傷つけあって別れることになるのだ。
それでも社交辞令的に少し会話を続けておこう、と健治の方から話題を振ってみる。
「最近はどうしてるの?」
当たり障りのない会話だな、と自分でも思った。まぁいいさ、適当に話して、適当に話を切り上げて、連絡先を聞くこともなくそれでサヨナラ。
偶然の再会。一瞬だけ彼女の人生と俺の人生が接点を持ち、そしてまた別々の道を行くだけ。
―人生は、そんな小説みたいには進まないのさ。
先ほどの"運命"を努めて否定する。そう、俺の人生なんてこんなもの。変な期待をしなけりゃその分がっかりする事もない。相手に踏み込まなければ、辛い思いをすることも苦しい思いをすることもないのだ。
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