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伊達政宗や徳川家康、前田利家も茶会に呼ばれた。
怨念の滲み出る、その潜り戸に何を思い馳せるかや。
昔の城や大きなお寺などの門には、夜に閉門しても
緊急の用事や、利便性の為に「潜り戸」というのが、
設置されている事が多いそうな。
試しに和風の大きな門扉を想像してみて欲しい。
格子状であるか、板を繋いだ扉か、いずれにしても
左右に開く巨大な、開閉式門扉をイメージする。
その下、片隅に人一人分程度が、潜れるミニサイズの
扉が別にあると想像するとわかりやすいかれど。
こんな小さな潜り戸が、怪異を成す事もあろう。
時は古く、秀吉が京都は伏見の城にいた頃に話だ。
元々は秀吉が千利休の趣向を、実現化しようと、
かなり突貫工事で進められたのが始まりで、
伏見城以前に、豊臣秀吉の隠居屋敷という狙いで
建築が始まったというが。
だが、隠居という以上に事は進んだそうな。
大阪港を造り、巨椋池には小倉堤を築いて、更には
大和街道を整備する大事業に発展する。(国道24号)
本拠大阪と京都朝廷を一気に掌握する一つの情報局。
そんな形に納まって聚楽第は戦国乱世の軍事施設ながら
実情は交通要衝管制をつかむ政治利用面が強くなり。
それからは普請奉行をおいて(佐久間政家)本格的な
築城へ移行していく。単なる隠居屋敷が地の利として、
城の活用が始まったという形で見ることもできるようで。
問題はこのようなインフラ整備は、現代でも同じだが
全ての労働者に恩恵のあるモノでは無く。ブラック企業
そのままな、過労に不当な賃金、不正な契約や約款など
様々な波乱を生み、結果、都市部ならではの掃き溜め也
軽微なれども、治安を乱す民を多く生み出した。
年収にすれば非道なものだったのか。
そうした死罪には及ぶ程もない(事実上面倒な)咎人
といったる類には、青竹の百叩きで放免という措置が、
多く行われたようで。
この際に伏見城の門に頭と手を縛りて、青竹を撓らせ
ビシバシと肉体を、骨に染みる如くに打つ。百叩きである。
年寄りの咎人なれば、死に至る者も居たかも知れぬ。
若人であれども、障害を負った者も居たかもしれぬ。
百叩きが終れば罪は赦され、街道に放り投げられ。
その体を癒すものなし。これが太閤様に尽くした者の
哀れになるというのだろうか。そんな怨念を血で、
残った仲間に励みを呼ぶ声もあったかも知れぬ。
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