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緊張で口が渇いた。
「それでも俺は」
乗客の疎らなバスの中でさえ、なかなか聞き取れない落ち着いた囁くような声が、私の目を見て紡がれる。
次の言葉のために、ゆっくり口元が開いたのと同時に、
『次はW大学前ー、W大学前ー。お降りの方は押しボタンでお知らせくださいー』
車内に響いた音声で、黒川くんの言葉はいとも容易くかきけされた。
「……」
唖然とする私をよそに、黒川くんはさっさと窓際の押ボタンを押した。
前方で『次、停車致します』のランプが点灯する。
それを眺めながら、私はふっと苦笑しつつも、降りる支度を始めた。
「聞こえたのか?」
「いえ全く」
「もう一度言うべきか?」
「大丈夫、昨日と今日で心変わりしてないなら」
「ああ、それはない」
「うん、なら大丈夫」
私は笑顔で、愛しい人の右手を自ら握り締める。
一緒にバスを降りるために。
そして、心から祈ろうと思った。
どうか、いつの日か。
菅さんの元へ、旦那様の想いが届きますように。
ー完ー
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