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「頼むから、休みの日ぐらいゆっくり寝かてくれ、伊織。急ぐ起案なら『モトピー』にでもやらせとけ……」
目を閉じ顔を顰めたまま、川本はイライラと続ける。
「違う違う、人がね、死んでんの。コロシ。殺人事件発生」
川本は目を開けると、毛布をはね除け、飛び起きた。
*
古い雑居ビルと住宅が混在している新宿のある一角に、黄色の立禁テープが張り巡らされている。
機捜、制服、私服の警官に鑑識係員などが入り乱れ、朝の静けさの中、奇妙なごたつきを見せていた。
そろそろ、通勤通学の人影も目に付き出す時刻とはいえ、現場にはまだ、野次馬はいなかった。
少し離れたところに、一台のタクシーが停まった。
長い手脚を折り曲げるようにして、中から、男が降りてくる。
黒のステンカラーのハーフコート。ごくごくありきたりな合物の背広に白シャツとネクタイ姿だ。
周囲の人間より頭ひとつ分くらい背が高い以外は、特にどうという特徴もない、やや痩せ形の四十がらみの男だった。
男は手にしたタクシーのつり銭を使い、通りがかりの自販機で、コーヒーを買う。
無糖ブラックと激甘ミルク入りだ。
二本の缶コーヒーをコートの両ポケットに突っ込みながら、男は、大股でテープの方へと近づいて行った。
立番をしている若い制服警官に、胸ポケットから取り出したバッチを形ばかり見せ、男はテープを持ち上げる。
一瞬迷いはしたものの、警官は男を制止した。
止められた背の高い男は、不機嫌そうに振り返ったが、いま一度バッチ取り出すと、丁寧に開いて、警官に見せる。
「お疲れ様です」
立番の警官は、慌てて敬礼をした。
男も「お疲れさん」と挨拶を返すと、テープをくぐり、中へと入って行く。
すれ違う捜査員と会釈を交わしながら、前方にある青いビニールシートの方へと、真っ直ぐに向った。
シートの脇には、トレンチコートにジーンズ姿の女が立っている。
化粧っ気のない顔。伸びかけたショートヘア。胸だけは、無駄にデカい。
歳は、もうそれほど若くはない。
だが、「じゃあ、いくつくらいに見えるか」と問われたなら、なんとも答えようのない感じの女だった。
美人といえば、美人なのかも知れない。
しかし、男は、いまさらその女の容姿の美醜を、客観的に判断できなかった。
というか、しようとも思わない。
それがどれほど面倒くさい女か、もはや男は、知りすぎるほどに知っていたからだ。
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