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と、トレンチコートの女は、近づいて来る男に気づき、振り返った。
「かーわーもーとー、遅い!」
不満たらたらの口調でこう言いながら、女が歩み寄る。
テレビのマンガのキャラクターかと思うような声。初めて聞く人間は、ぎょっとするかもしれないが、それが地声なのだからしょうがない。
「わたしとモトピー、ぶっちぎりの一番乗りだったんだよ、機捜より早かった」
「状況は? 伊織」
川本は、女の言葉を完全に無視して訊ねた。
「検視まだなんだけどね。転落死っぽい」
『伊織』と呼ばれた女が応じる。
靴カバーと手袋をつけながら、川本が「どこから?」と訊く。
「あそこ」
手にしたペンで伊織が指し示した先は、五階建てのビルの屋上だった。
『警視庁』と黄色のロゴの入った紺のつなぎを着た鑑識の背中が、見え隠れしている。
川本は、その屋上を一瞥すると、屈んでビニールシートを捲った。
横たわっているのは、東南アジア系の青年だった。頭部や鼻孔から出血している。
その傍に、二十代半ば過ぎとおぼしき刑事がやってきた。
細身のスーツに身を包んだ、全体的にこぎれいな感じの、『今どきの若者』だ。
川本が、そちらを向いて問いかける。
「本橋、身元は分ったのか?」
若い刑事は、手帳を開きながら答えた。
「はい。外国人登録証、所持してたんで。タイ人です。名前はス、スリヤ・チャイル、チャ、チャル」
川本は立ち上がると、眉をひそめて本橋の手帳をのぞき込む。
「『スリヤ・チャイルンルアン』ね。まだハタチそこそこか、気の毒に。目撃者は?」
「いや、それが。機捜とこのあたり当たってみたんですけど。六時前くらいの中途半端な時間だったんで……そもそも人自体が、あんま居なくて」
本橋がくだくだと言い訳めいたセリフを吐いていると、検視官の一行が到着した。
川本たちは、しばし場を譲る。
歩きながら、川本がコートのポケットに手を入れる。そして、伊織の方を振り返った。
無言で、缶コーヒーを一本放る。
無糖ブラックの方だ。
そして、自分は激甘ミルク入りの方のプルトップを開け、缶に口をつけた。
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