プロローグ

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自殺と言うのがどういう概念であるか、考えてみよう。 いや、そんなことは考えるまでもなくわかりきっている。それは命を自ら断つ行為であり、それ以上もそれ以下でもないし、それと同等である存在すら、他には存在していない。 他殺ではない。 他人に殺される・・・・・・、この場合はそれに事故などの過失致死も含めて言うけれど、そう言った殺人とは打って変わって、自身が自身を殺すと言う行為。 そこには、他人の介入する余地がない。 自分で自分を殺す。究極の自己完結にして、終焉、エンドマークである。 いや、まて。例えば、他人に自殺の理由を与えられた場合は、そこに他人が介入していると言えるのではないだろうか。 そう考える人もいるだろう。例えばいじめ。ネグレクト。まあ理由なんてどうでもいいけれど、それの所為で自殺する人間は、決して少なくはない。 生きていることが苦痛にしか感じられない人間は、たくさんいる。多分、私もそうだし、私以外のみんなもそうだ。 人生楽あれば、苦もある、なんて歌った唄もあるけれど、しかし割合的に、それは後者のほうが圧倒的に多い・・・・・・、困ったことに。嘆かわしいことに、だ。 あるいは、恐るべきことに。 例えばこの、私の住む国である日本は、自殺大国と呼ばれるほど自殺者が多いらしい。 日本で拳銃が普及しない理由の最たるものとしては、犯罪率の悪化よりも自殺率の悪化がある。ツールがあれば、自殺に使う。それは日本人として、遺伝子レベルで刻まれた本能なのかもしれない。 なんていえば、流石に偏りすぎた見方だろう・・・・・・、あまりにも偏見が過ぎる、と言われるかもしれないし、言われたところで否定はできない。 そもそもする気もない。 世界を形作っているのは偏見であり、決して平等ではない。平等とはすなわち、何もないと言うことだ。スーパーフラット。何もなければ意味もない。 それは同時に、苦痛や辛辣がないと言うこともでもあるので、そこまで悪いことでもないのかもしれないけれど、同じように良いことでもない。文字通り、良いも悪いもないのである。 ・・・・・・、まあそんなことはどうでもいい。そんなことは自殺に関係ない。ええと、何の話だったか。 そう、自殺する理由を、他人から与えられた場合においては、自己完結とは呼べないのではないか、と言う話だ。
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