第一話~名無しの青年~

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 パルデイス城に突如現れた男の外見は黒髪。間違いなくモルクル人である。モルクル人は他国と積極的に関わろうとしないために情報が不足しているが、好戦的という話はあまり囁かれない。手を出さなければ比較的安全とさえ言える。  そんなモルクル人の男についてイオンが話したのは、彼に治療刻印術の効果が見受けられないということだった。 「どういうこと?」  歩きながら理由を考え、自身の知識の中にその答えがなさそうだと判断して首を傾げるアシエスにイオンも首を横に振ってみせる。  回復刻印術は被術者がそれに耐え得る体力を残していることが大前提となる。魔術による治療は身体の欠損した構造部分を埋めるために他の細胞等を寄せ集め、傷を塞ぐ。言ってしまえば生物が生まれ持っている自然治癒を強引に加速させているというわけだ。体力のない人間に刻印術による回復を施せば、場合によっては目的とは逆に死に至らしめることもある。そのため、男の治療は刻印術に頼らない方法で傷を修復し、不足した血液の補充や栄養の点滴などを済ませ、峠を越えたことを確認してから早く快復させるために刻印術を用いた。その結果が先の通りということになる。 「原因は不明です。わたくしも試してみましたが、どの回復刻印術も機能いたしませんでした。まるで油が水を弾くようにマナが霧散するようで……」 「イオンでもだめだったの!?」 「お恥ずかしながら。しかし、本当に謎多き男です。これまで以上にわたくしの言うことに従ってくださいませ。これはアシエス様のためなのです」 「うん。必要以上に近づかない、だよね。わかってるよ」  イオンが頷いたことを確認してアシエスは前を向く。階段をいくつも下り、途中ですれ違う侍女や衛兵に頭を下げられながら廊下を進み、いくつも飾られた綺麗な絵を通り過ぎて、二人の衛兵が屹立して見張りをしている部屋へと入った。部屋の中にも衛兵はいる。対象の見張りと医療状況の監視のためだ。見張りの衛兵三人は訪問者に驚いて目を丸くするもすぐさま低頭し脇へと退く。見慣れた光景にアシエスはそのままでいいと告げ、イオンが制限を設けた距離、ベッドから五マータも離れた場所で立ち止まった。
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