第一話~名無しの青年~

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 開け放たれた窓から入ってくる微風が二人の髪を若干揺らし、衣擦れの音以外は何もない。アシエスにはひどく長く感じたほんの数秒、その間に呼吸が落ち着いたイオンが短く呼びかける。 「アシエス様」 「っ」  アシエスの肩が若干跳ねる。イオンの声は酷く平坦で何の抑揚もない。だからこそ恐い。これは彼女が怒っているということだと理解して、やはり顔が上げられなかった。何について怒っているのかがわからないほどアシエスは頭の回転は鈍くない。最初に取り決めた約束を破ったからだ。絶対に近づくなと言われたにも関わらず勝手に駆け寄り、あまつさえその手を掴んだ。イオンの言いつけを守らずに叱られたことは何度とあるが、まるで氷のような冷たさを秘めた呼びかけは覚えがない。つまり、かつてない程に怒り心頭しているということだ。 「わたくしの言いたいことがおわかりになられますか」 「……勝手に、近づいたから、です」  怒られている時に口調が丁寧になるのは怖さからだろう。恐る恐る告げた言葉にイオンは短く肯定の返事を出す。 「では、どうして怒っているかおわかりになられますか」 「 イオンの言うことを聞かなかったから、です」 「いいえ」  今度は即座に否定の言葉が飛び出した。間違いなくそれが正解だと思っていたアシエスは怖いという感情よりも疑問が浮かび上がり顔を上げようとするが、それよりも早く駆け寄ってきたイオンに抱き締められてしまった。 「え?」  訳がわからずきょとんとしていると、小さな体を必死に抱きながら耳元でイオンが小さく言った。 「心配したからに決まっているでしょう……もしあの男がアシエス様に何かしていたとすれば、わたくしがアシエス様を護ることはできないのです。……もっとご自分の身を案じてください……」 「イオン……」  確かに、イオンの言う通りにしなかったことで怒っていた。だがそれは結果であって、それ自体が理由ではない。イオンの怒りに怯えて忘れてはいたが、そんなことで怒り出すほど狭量ではないことなどアシエスとて知っていた。  イオンは自分の思う通りにならずに怒ったのではない。アシエスが危険に身を投じたことに怒っているのだ。抱き締める力は強く、密着する体は柔らかく温かいと同時に震えていた。怖かったのはアシエスだけではない。
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