第二話~所在無き心が揺らぎをもたらす~

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「今日は何が見えますか?」 「おっきな影」 「影?」  アシエスの隣に立ち少女が見つめている先を目で追いかける。しかし特別何かが見当たりはしない。広がる平原と木々の生い茂る山があるだけだ。 「何の影です」 「雲。おっきな雲の影」  顔を上げると、確かに大きな白い雲が青い空にひとつ浮かんでいた。山の先まで続いている積雲は悩みなどと無縁そうにゆっくりと動き、その影を山や平原に落としている。徐々に陣地を拡大しながら迫ってくる影は城下を飲み干し、二人のいる白もソレールの間に割り込んで日射しを遮ってしまう。より一層肌寒さが強くなり、もう一度室内に戻るよう促そうとイオンが口を開こうとするが、それよりも先にアシエスが呟いた。 「ねえイオン」 「はい」 「あの人って、あの雲の影みたいだったよね」 「雲の影、ですか」 「好きなように空を動いて、そのままどんどんやって来るの。わたし知ってるよ、イオンがわたしのために周りの人を警戒してること。イオン、ピールくらいしか信用してないでしょ」  誰にでも人当たりのいい対応をしてきたつもりだった。誰しもに好感を持たれ、自分の立場を確立しアシエスのために動きやすくあるようにと。しかし、まさか五歳のアシエスに見破られると思っていなかったイオンは思わず目を見張る。  アシエスは変わらず陰った山を力のない瞳で眺めながら続けた。 「でも、そんなイオンでも、あの人はかいじゅーしてたよね」  懐柔。昨日の勉強の中で新しく覚えた言葉だ。 「そこが雲の影みたい。壁も兵士も、影が来るのを止められないの。……あの人といるのが楽しかった。でも、雲の影をつかんでおくことはできないよね。どっかに行こうとしてるのを、眺めてるしかできないよ」  唐突に現れ、イオンやアシエスの心に踏み入り、そのまま勝手に去っていった。言い得て妙だ。  モルクル人の名も無き少年は三日前に城を脱走した。アシエスの世話をしていない時間はイオンが見張りを務めていた。都合上可能なのはアシエスが眠っている夜だけとなるが、異質な力を持つ左手も封じていたためにそこまで心配はしていなかった。刻印術の障壁を張った格子から脱する方法はないはずだから。  にも拘らず逃げられた。
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