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見張りの衛兵の話では、左手に巻き付いた刻印術で強化した手拭いをビリビリと破り、格子を素手で曲げて出てきたらしい。少年の態度や雰囲気に気を許していた部分はあれど見張りとしての仕事を怠ることはなく、しっかり拘束しにかかったそうなのだが、全くもって歯が立たず、手を叩かれて武器を弾かれ、何もできないまま逃走を許してしまったと見張り達は悔しそうに話していた。記憶を取り戻し、その上での逃走だったと見てまず間違いない。神官セドリックは街にモルクル人の少年を指名手配し、外へ逃がさないよう街を護る大きな壁の入口を閉ざしたが、その上を悠々と飛び越えていってしまった。
難度は高いが刻印術には空を飛ぶものもある。その術を行使したと言うことであればよほどの術師だというのがイオンの見解だ。五人の衛兵を素手で無力化したことと飛行刻印術を使えることを鑑みると、恐らくモルクル人の中でも戦闘に秀でた人物だったに違いない。
ただし、問題はそこではなかった。一番の問題はその少年が逃げて行った方角にある。彼の逃げたのは東。つまり、フィーマ帝国がある。
その先にあるモルクルに逃げた可能性もあるが、少年の出現とフィーマ帝国の進軍に関係性があると見ているセドリックとイオンはこの事態を重く見ている。つまり、フィーマの間者である可能性。
後ろからそんな高等術士に襲われれば万にひとつも勝ち目はない。負けるとわかってはいても最善を尽くさなければならない。そのために数名、城内に残っていた騎士を送り出した。
そして現在、そんな脱走者によってつまらない日常に刺激をもらっていたアシエスは何をするにしても表情が曇りを消すことはなくなってしまっている。
「なんとなくだけど」
アシエスはまた、ぽつりと呟いた。
「あの人が夢に出てきた人なのかなって思ってた」
「夢と言うと、アシエス様の勇者が現れたものでございますか?」
「うん。なんでかな」
「 そうですね……」
もう会うことはないはずだ。少なくともアシエスは。逃げ切られるにしろ、捕らえて処刑するにしろ。
ならば、少女の夢を壊すなどと無粋な真似をする必要はない。
「もしかすると、あの方は本当にアシエス様の勇者だったのかもしれません」
「?」
意味がわからないと言わんばかりに首を傾げる姫。
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