終 流れる雲に、恋歌を

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終 流れる雲に、恋歌を

 さやかに、風が流れゆく。  春の穏やかな薫風とともに、ゆっくりと流れていく白い綿雲を目で追う。  眼下には、あの晩秋の日と同じ飛鳥の遺構と山々、懐かしい街並みが広がっている。 「おかあちゃ! きいろいおはなが、いっぱいあるよ!」 「あれはねー、菜の花って言うのよ。春のお花なの」 「なのはな? キレイなきいろねぇ。ぼく、あれをかくねー」  いそいそとスケッチブックを広げ菜の花畑を描きだす愛しい子の姿に、笑みが零れる。  ふと、あの日の大和三山の歌が脳裏に甦った。  山々は、人の世に起こる事柄や幾多の変遷が過ぎ去る間も、静かに悠久の時を刻み、ただ、そこに在り続ける。  古代の人々の愛に想いを馳せた、あの日も。  この世の全てが愛おしく想えた、あの時も。そして――。 「おかあちゃ? どぉして、ないてるの?」  そっと手が握られた。小さく、か弱く、温かな手。  心配そうに見つめてくるのは、あの人と同じ、澄んだ黒瞳。 「なっ、泣いてないよ? もう、お絵描きは終わったの?」 「うん、みてー! なのはなと、おやまをかいたの。キレイでしょ?」 「わぁ、ほんとね。青いお空も綺麗に描けたね。お空に浮かんでるこれは雲と、お花?」 「うん、なのはな! あのね、くもさんにね! おとうちゃのとこに、なのはなをもってってもらうの! とってもキレイだから!」 「……っ。おとうちゃの、ところ?」 「うん! おとうちゃのおうちは、おそらのうえにあるんでしょ?」 「……そうね。雲に運んでいってもらおうか。いっちゃんからのプレゼントだもん。おとうちゃ、きっとすごく喜んでくれるねっ」 「ぼくも! ぼくもうれしいっ! ほらっ、これっくらい! こーんなに、いっぱい、うれしいっ!」  愛くるしい瞳をキラキラさせ、両手を大きく何回も広げては、嬉しさの度合いをジャンプしながら伝えようとしてくれる幼子。  私たちの、かけがえのない存在。壱琉(いちる)。  ねぇ、零央?  この愛おしい温もりとともに、あなたが教えてくれたね。  本当に満たされるということ。人が人を愛おしむという感情に、理由や言い訳は要らないこと。  “今、生きている”  多くは望まず。ただ、生きて、ここに()る。それが、どれほど愛しく、意味のあることかを。  その僥倖に感謝して、この小さな存在が更に命を繋ぐその時を、私は見届ける。あなたのぶんも。  でも今は。今だけは。  飛鳥に吹く、懐かしい風に。あの日と同じ、流れる雲に。願いを乗せてみよう。  あなたの命の名残の地。遠い異国まで、想いを運んでもらうわ。  私の変わらない想い。不変の熱情を刻んだ、あなたへの恋歌を。  零央。あなただけをずっと愛してる。  この命果てる、その時まで。永遠に――。 -Fin-
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