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「あの。その……」
じわりと頬が熱くなるのを感じた。視線の先には岡田と鈴木がいる。
(彼らは香織さんの演奏を聴きに来た人だよ、大丈夫だから)
心の中で告げてやると、ほっとしたのが伝わってきた。
「き、今日はわざわざ私のピアノを聴きに来てくれて、どうもありがとうございますっ。一生懸命に演奏しますので、ヨロシクお願いします!」
ちょっとオカマがかった俺の喋りに、ふたりは面食らったみたいだったけど、姿勢を正してお辞儀してくれる。
香織さんも丁寧にお辞儀をし、グランドピアノに近づいてその蓋を開けた。鍵盤の上に掛かっていた赤い布を取って、右手人差し指でポーンと音を鳴らす。
「ずっと弾きたかった、本当のピアノの音だ。嬉しい……」
愛おしそうに両手で、鍵盤をなぞる様に触れていく。自分の指先から次々と音が奏でられ、不思議な感覚に陥った。
(香織さん何か、すっごく気持ちいい。楽しいかも)
「そうだよ、優斗くん。一緒に楽しもうよ」
微笑んだ彼女が、静かに鍵盤の上に指を滑らせて弾いていく。俺でも知ってる曲、ベートーベンのエリーゼのためにだった。切なげに弾いていたと思ったら情熱的になったりと、曲調が変わる度に香織さんの表情も変わる。
ピアノの端から端までを使って奏で上げていく姿はきっと、すっごくキレイなんだろうな。
弾いてる最中に思い出される、香織さんの記憶――課題曲の練習を頑張ってるところや入院中の治療の様子、辛い投薬治療などが伝わってきて、胸の中が痛くなった。
だけどそんな辛さも今、浄化されようとしている。喜びに溢れながら、ずっと触れたかったピアノで演奏出来ているんだから。
そして最後の一音を弾いて、ゆっくりと指を外した。
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