第1章

17/18
前へ
/18ページ
次へ
 その子どもは、必死に手を伸ばそうとしている。大きく開けた口からよだれをたらし、目を輝かせながら手を伸ばしているその先には、庭に咲いている梅の花があった。  何気ない、一つの平和な光景だった。そのとき僕は、何かから解放されたような気がした。僕は、しばらくその光景をじーっと見ていた。  車椅子を押している、その子のお母さんらしき人は、車椅子を止めて、一緒に笑顔になって梅の花を見ていた。  しばらくして、車椅子の子は、行ってしまった。僕は、もう死のうという気が無くなっていた。  わけがわからなかった。どうして、あの光景が、僕から死の選択肢を消したのだろうか。窓から、優しい春の風が入ってきた。  包丁を見つめた。窓から入ってきた春の日差しで、きらきらと光っていた。まるで、生きろ、生きろと言っているようだった。同時に死ね、死ねとも言っているようだった。その中で、僕は、生きていこうと思った。  なんでもない、ほのぼのとした、まだ肌寒い冬のできごとだった。     11  和也との記憶は、もう完全に思い出になっている。僕の中で、それは、素敵な思い出ではない。だからといって悪夢のような思い出でもない。僕に生きることの意味を教えてくれた思い出だ。  それから僕は、猛然と生きた。常に押入れの奥の角に置いてある包丁は呻り声を上げていた。そんな中で、大学を卒業した。  ここからが、なぜ、僕が障害者の通う『緑』という施設に勤めだしたかということなのだが、それは、あの車椅子の子を見たときのことをこう解釈しているからだ。  僕と和也は、精一杯生きたと思う。しかし、包丁という生死の葛藤をさせてくれるものがなければ、もたなかったという時期があった。しかし、あの車椅子の子は、常に生きる苦しみと闘いながら、猛烈に生きていたと思うのだ。だからこそ、あのなんということはない梅の花を見て、あそこまで興奮し、笑顔で手を伸ばしたのだ。  僕も、そんな障害者の通う施設で、一緒になって猛烈に生きてみたいと思った。それで、障害者の施設に勤めたのだ。  しかし、現実は少し違う。僕の通う『緑』にいる障害者たちは、皆がみんな猛烈に生きているとは言えない。個々人によってそれは本当に別で、一概に言うことはできない。  しかし、僕は、『緑』の皆に精一杯生きて欲しいのだ。猛烈に生きて欲しいのだ。それが、僕の願いだ。
/18ページ

最初のコメントを投稿しよう!

0人が本棚に入れています
本棚に追加