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嵐の前はやけに静かになるという。それでなくとも、辺りが静まり返る瞬間と言うのは、良い心地はしないものである。
だが、それは常日頃から喧騒に満ち満ちている場所に限ってのみ通用する話だ。要は、人間が非日常を恐れるというだけの話で、静けさが日常であるならば、もはやそれは恐怖や畏怖の対象たりえない。
その日、本城 佳代子(ほんじょう かよこ)は所属するK大学ボランティアサークル『きさらぎ』の新入生歓迎コンパに出席し、帰路についていた。
彼女の下宿先は、居酒屋の乱立する学生街からは、大学を挟んでその奥にある。大学の中を突っ切るのが、我が家への近道であることを、多くの学生と同じように彼女もまた心得ていた。
佳代子は、誰一人通らない大学構内を酔いの回った千鳥足で闊歩していた。カツカツというヒールの奏でる不規則な音階が鳴り響く。
時刻は日付の変わる目前で、僅かばかりにある構内の外灯の明かりのみでは、いくぶんか足元も心許ない。
それでも、大学三回生の佳代子にとっては何度も通ってきた道であり、夜の女の独り歩きという危険極まりない行為に関しても、自分なりに納得した上で実行していた。
そもそも彼女は、このK大敷地内でこれまでに婦女暴行や恐喝等の物騒な噂を聞いたことがなかった。
そして、そういった思考以前に、彼女は酒に酔っていた。
総合大学であるがゆえのだだっ広い敷地内に、春の心地よい夜風が吹き、農学部の牛舎からは牛の間の抜けた鳴き声が聞こえた。田んぼでは蛙の混声四部合唱が佳境を迎えようとしていた。
彼女は一人ではなかった。
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