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「とおりゃんせ とおりゃんせ ここはどこの細道じゃ」
彼女は幼子の折によく聞かされた童(わらべ)歌を口ずさんだ。上気した頬を緩ませながら、人に見られたら紅顔の至りになること請け合いの、かの独唱をやめなかった。
――三次会はさすがに断ったけれど、みんな悪酔いしてないだろうな。
「天神さまの細道じゃ」
――今年は新入生、何人入るんだろうな。
「ちっと通してくだしゃんせ」
――センパイとなら一緒に帰っても良かったんだけどなあ。
「御用のないもの通しゃせぬ」
――あれ?
佳代子の足が止まる。
「この後の歌詞なんだっけ?」
彼女は気付いていなかった。
彼女は一人ではなかったのだ。
日付が変わった。零時零分。今日でも明日でもない、その瞬間、風が止んだ。
牛は鳴き止み、蛙は合唱を中断させた。凛とした静寂が辺りを包み、漆黒が闇を更なる深みへと染め上げていった。
再び風が吹き始めた頃、牛たちの耳には独唱の続きが届いた。
とおりゃんせ とおりゃんせ
ここはどこの細道じゃ 天神さまの細道じゃ
ちっと通してくだしゃんせ 御用のないもの通しゃせぬ
この子の七つのお祝いに お札を納めに参ります
行きはよいよい 帰りはこわい
こわいながらもとおりゃんせ とおりゃんせ
一人きりのその歌声は、今度は途切れることなく続いた。
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