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「オオイヌって、犬?」
「そう、つける実が、その、雄犬の、何だ、股間についてるナニに似てるからついた名前だよ」
友人は苦笑している。
「ええーっ!」
それは、つまり、雄ならついてる、もちろん自分にもある、とある器官を言うのか?
幸宏は目を見開き「知らなかったよ」とつぶやいた。
「名前で絶対損してるよな、こいつ。かわいそうに」
僕は。
可憐で清廉で可愛いと言いたかっただけなのに。
君みたいに。
翌日。幸宏は廊下で会った幸子に朝の挨拶をする前に言った。
「僕、もう君をオオイヌノフグリに似てるって言わないよ! 昨日まで知らなかったけど、もう教わったから! だから!」
すかっと通るテノールが語る。
「我が愛しのさっちゃん、僕と結婚してく!」
ここまで。
それ以上幸宏の言葉は続かず、『れ』の一文字が彼の口から紡がれることはなかった。
なぜなら。
彼の顔には分厚い本がめり込んでいたから。
学内では毎朝おなじみの光景だ。
一日最低一回は幸宏は幸子に求愛をし、一日最低一回は幸子は幸宏に剣突を食わせる。
毎度の同じ台詞回しはベタな漫才のような安定した調和をかもす。
戦後間もない白鳳大学。
混乱の最中にはあっても、いち早く学内には学生が戻っていた。往時ほどではないにしろ学びの場は本来の役目を取り戻しつつある。
復員して状況が許す者はもちろん、戦争へ行かなかった者、行けなかった者、そして行かされなかった者がわずかながらいたからだ。
武幸宏もそのひとり、『行かされなかった者』だった。
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