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早朝に、白髪の男性が現れた。
ナースステーションのスタッフが居住まいを正す。
「おはようございます、会長」
にこにこして、唇に人差し指を当てると、目当ての病室に歩を進める。
一年前に院長を譲ったとはいえ、姿勢もよく若々しい。
威厳が薄くなったぶん、柔和になってスタッフからも笑顔で迎えられていた。
扉をノックする。
隙間から、顔が覗く。
「おはようございます、仙崎先輩」
「ああ、君か。わざわざ来てくれたのか」
「今は……?」
「ちょうど眠ったところだ」
病室に促した。
「最近は、奥様はどうですか」
「落ち着いている、というべきなんだろうな。以前のように感情が昂ることは無くなったよ。」
朝日の差し始めた窓。
「僕のこともすっかり判らないけど。
それで良いのかもしれない。ロクな亭主じゃなかった」
「そんなことは無いですよ。
先輩が早期退職して介護に専念されたのは……当時はただショックでしたが今ならわかります。どれほど勇気のいる決断だったか。」
「そんないいもんじゃない。逃げただけだ。」
「奥様は、幸せだと思いますよ」
「いや、そんなことは無い。
俺は、きちんとこいつに感謝も、愛情も言葉にしたことが無い。
今、どれだけ言っても届かないんだよ。」
朝日が銀髪の上に遊ぶ。
もう十年近く、俗世から離れた彼女は歳をとっていないように見える。
外にあまり出ていないこともあり、色白で頬は薔薇色だ。
何より、険しい表情がなくなり、時には子供めいて見える。
「でも、俺は幸せだ。ここに入れて貰えて感謝してる」
「こちらこそ。先輩がボランティアで患者さんのカウンセリングしてくれてからクレーム激減です。」
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