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おだやかな風が吹いてくる。
海から穏やかに潮の香りを運んでいる風が、海帆(みほ)の長い髪を揺らす。
その風を肌で感じながら、ふいに彼女はきゅうっと胸をつかまれたような気持ちになった。
耳にはまだ、あの言葉が残っている。
『夏休みになったら、一緒に旅行へ行きましょう。そうだ海! 海がいいわ』
なんて恨めしい台詞だろう。
千鶴(ちづる)が海や山へ行こうという時は、決まって父親候補と会わされる時なのだ。
今度はどんな男と恋に落ちたというのだろう。
彼女は道端の小石を蹴り上げる。
二、三回繰り返すと、石は小さな坂道を転がって、海沿いの道路へ飛び出して行った。
その小石を追っていた視線を上げると、その先にバス停が見えた。
昨日、ここへ来た時に確認しておいた、屋根もない吹きさらしの錆付いたバス停。
あそこにあと五分もしないうちに、一人の男がやってくる。
歩きながら、彼女は溜め息を吐いた。
初対面の父親候補と会う時は、いつも気が重くなる。
今度の男の名前は国崎誠二(くにさき せいじ)。三十七歳。
千鶴の仕事の後輩だ。
五歳も年下の男を連れて来る千鶴も凄いが、四十過ぎの千鶴を好きになるとは、この男もただ者じゃない。
これまでも何人かの候補に会ってきたが、こんなに若いのは初めてだ。
一体、どんな顔をして千鶴に会いに来るのだろう。
海帆はバス停の時刻表を確認すると、傍の防波堤に背をもたれ掛けた。すぐ脇の浜へ下りる階段をちらりと見る。
今度こそ、このまま帰ってしまおうか。
そうしたら、千鶴はどんな顔をするのだろう。
自分のことを捜してくれるだろうか。
それとも、無視をして男と過ごすのだろうか。
バスが来る方向を眺め、海帆は想像しかけた未来をまた胸の奥底へ押し込めた。
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