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不吉な羽音を鳴らし、不気味な叫びをあげながら鳥が飛び立った。
連鎖するようにそこかしこで叫喚が起こる。
見上げる小さな空には赤黒く重たい雲がのそりと蔓延るだけで、飛び去って行った彼らの姿を認めることは出来なかった。
昼間でも仄暗い森の奥深く、木々に覆われたその小さな家に光が射し込むことはほとんどない。
今日もまた、長い夜が始まろうとしていた。
陰鬱として代わり映えのない退屈な、それがこの家とその周辺の日常だ。
否、ひとつだけ普段とは違うことがあった。
暦の境目、季節が切り替わる今夜、境界線が曖昧に滲み、混じり、溶けあう。
人間たちの間では呪われた日とも囁かれる、覚束ない不穏な瞬間がもうすぐ訪れようとしていた。
『冷てっ! おい、シャフェンって言えよクソババア!!』
ばしゃり、突然の濁り水の襲撃に対し、【ソレ】は罵声をあげた。
相手はたった今水を撒いた老婆であるが、彼女にその声は聞こえているのやらいないのやら。
『聞いてんのか!』
老婆は声の方を一瞥したように見えた。
何かを探すように、元々窪んで固い皮膚に埋もれている目をさらに細めて彷徨わせたようにも。
探し物は見つからなかったかそれとも何も探してなどなかったか、老婆はすぐに狭いボロ家の中へと戻って行った。
怖ろしく無口な女だ。
随分昔に突然やってきてこの空き家に棲み付いて以来、一度でも声を発したことがあったかどうか。
少なくとも今この瞬間、彼女の声を思い浮かべることは不可能だ。
こちらの声は届いているのか姿は見えているのか、それすらも分からない。
知恵のある女らしく、近くに市場もなければ井戸すらないこの森の奥深くで、たった1人ぎりぎりのところで生命を繋いでいく術を彼女は知っていた。
水を汲みに行く川は小屋から遠く、水は非常に貴重だ。
湿らせたボロ布で身体を拭き、何度も使いまわした最後の水で週に一度だけ服を洗う。
濁り水でいくら丹念に洗っても彼女の服が元の色を取り戻すことはない。
それでも彼女が週に一度の洗濯を続けるのは、或いは曜日の概念を忘れないためなのかもしれなかった。
この森の長い夜を過ごす時、老婆は明かりとりのための火すら灯さない。
闇に棲息する喋らない女からは獣の死骸にも似た異臭が漂い、その目は仄暗く濁って不気味である。
不気味に――この森に馴染んでいる。
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