670馬力の女

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670馬力の女

―――ここまで心中穏やかではない気分でスフォルツェスコを眺めるのは生まれて初めてかもしれない。 右手に見えるその大きな城壁は、間抜けに見えてしまうほど美しい。 それを背景にして暗闇に浮かび上がる、漆黒のムルシエラゴとスカイブルーのアヴェンタドール。 それぞれ運転席には絶世の美女が一人ずつ。 まさに完璧な風景だ。 もしもそこが、時速180キロの世界でなかったとしたならば。 《言い残したいことはないの? ミラノ最速の座から転げ落ちる前に》 「えっと……ピザまんが食べたいです」 《そう。無理ね、ご愁傷様》 それが起こったのは、一秒にも満たない一瞬の内だった。 左側、アウトへ膨らむアヴェンタドール。 左目で左サイドミラーからそれを確認するヒューガ。 パスコースだ、塞がねば。 ハンドルを緩め、アヴェンタドールを塞ぐようにしてアウトへ膨らむムルシエラゴ。 しかし。 ヒューガがそれに気付くまでは、一瞬なれど恐ろしく長い時を要した。 ルームミラーを左から右へ流れるアヴェンタドールのヘッドライト。 アヴェンタドールの走行ラインがクロスしたのだ。 ルームミラーは見えていたはずだ。 ヒューガに右目が、あったとしたならば。 《チャオ、クソ女さん》 ミカエラはギアを一つ下げた。 鞭を打たれたようにして跳ね上がるエンジンの回転数とタコメーター。 前へ。 ムルシエラゴの右から、右前へ。 入れ替わった。 順位が、入れ替わった。 前方、アヴェンタドール。 後追、ムルシエラゴ。 後追、ミラノ最速の、ムルシエラゴ―――。  
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