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とりあえず、今は沙和子のことを考えよう。
気持ちを切り替えるように、ひとつ深呼吸をした。
「・・・店、やめよっか」
「えっ」
沙和子は驚いた様に類を見上げている。類はゆったりとした動作で沙和子の方を見ると、笑った。
「・・・なに、寂しい?最初は、嫌がってたじゃん」
「・・・そう、ですね。嫌でしたね」
「”嫌でした”ってことは、今はそんなに、嫌じゃないんだ?」
「まあ、そうなりますね。・・・皆さん、良い人で・・・好きなんです、たぶん」
沙和子の言葉を聞いて、類は嬉しそうに微笑んだ。
別に、沙和子に夜の世界に染まってほしいとか、理解してほしいとか、そんなことを思ったことはない。ただ、自分の生きてきた場所で出会った、善良な人間達を、沙和子も好きだと言ったことが、嬉しかった。
「やめて…っていっても、やめたところで、なんだよなあ」
類は自分の柔らかい髪を、がしがしとかき回した。
「同じ、アパートなんだよねえ」
「そうですねえ…別にって、感じですねえ」
呑気な口調で、沙和子がそう言うと、類は唇を尖らせた。
「あなたの心配、してんだってば」
「心配していただくのは、有難いのですけど…」
沙和子は、ふう、と息を吐く。
「私、この27年間、男の人にモテたことがないんですよ」
「…何、急に」
類は目を細めて、少し呆れたような顔で沙和子を見つめている。
「何、って。言葉のままです。気にし過ぎなのではないかと思うんですよね。私ですよ?」
私ですよ?に妙な自信をみなぎらせて、沙和子は人差し指で自分をさした。
「…あのさあ、オレ、前に言わなかったっけ。沙和子は美人だと思うって、言わなかったっけ」
「…い、われましたっけ?」
沙和子は、少し赤くなった顔で俯いた。事も無げにそんなことを言い放つ類に、驚いてしまう。
「言ったね。…だからね?変なやつが寄ってきても、おかしくないんだよ?」
「…そうなのか…」
そう呟いた後、すぐに疑問文で「そうなのか?」と首を捻る沙和子を見て、類は笑う。
先刻までの、少し刺々しい気持ちが、あっという間に凪いでいく。
「引っ越しでも、するかなあ」
秋の夜空で、磨かれたように鋭い光を放っている満月を見上げて、類は呟いた。
そして、すぐに、馬鹿なことを言ったと、後悔した。
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