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沙和子と三人で、引っ越し?
なんと、滑稽に見えることか。
類は俯いて、口角を横に滑らせるような笑い方をした。
「そんなことするの、おかしいか。何言ってんだろうね、オレは」
「……」
沙和子も、同じことを思っていた。
友達ではない。恋人でも、家族でも、ない。
一緒にいる意味なんて、最初から存在しないのだ。
「…帰る?」
類がぽつりと呟いた。
沙和子のストーカー候補が(ドアの隙間から、沙和子を見つめていた男が、店に来たという時点で、類の中ではグレーが黒になった)現れた現状、彼女を危険に晒してまで、側に置いておく気持ちには、なれなかった。
驚いた顔をして、何も話さない沙和子に、類は「てっちゃんと、離れたくない?」と訊いた。沙和子は、一瞬だけ表情を強張らせた。
類の勘の良さには、いつも驚かされる。
哲司の側にいたい、というよりも、ただ、今の自分の覚束ない小さな恋心を、もう少しでいいから、見守りたい。
そんな感じだった。
その気持ちのせいで、自分がどんな風に変わるのか。胸が痛むばかりなのか、それとも、それすら喜びに変わるような、そんな瞬間を体感することがあるのだろうか。
強く何かを望むことなど一度もなく、身近にいる人間の期待に応えたい、役にたちたい。
ぼんやりとそんなことを思う程度の、つまらない人間だった。
自分でもつまらない、と思っていた自分が、最近は妙にそわそわして、ドキドキして、泣いたり怒ったり笑ったり、自分自身で制御不能の感情に、支配されている。
初めは嫌で仕方なかったそれらを、最近では少し、悪くない、と思うようになっていた。
それはきっと、哲司が笑ってくれるからだ。
最初とは違い、哲司は、沙和子が何か話すたび、一緒に何かをするたびに、笑ってくれる。
二人でご飯を食べている時、本を貸してくれる時、朝、沙和子が「いってらっしゃい」と言った時。
哲司は、嬉しそうに笑う。
沙和子には、それが嬉しかった。
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