5/6
前へ
/40ページ
次へ
沙和子と三人で、引っ越し? なんと、滑稽に見えることか。 類は俯いて、口角を横に滑らせるような笑い方をした。 「そんなことするの、おかしいか。何言ってんだろうね、オレは」 「……」 沙和子も、同じことを思っていた。 友達ではない。恋人でも、家族でも、ない。 一緒にいる意味なんて、最初から存在しないのだ。 「…帰る?」 類がぽつりと呟いた。 沙和子のストーカー候補が(ドアの隙間から、沙和子を見つめていた男が、店に来たという時点で、類の中ではグレーが黒になった)現れた現状、彼女を危険に晒してまで、側に置いておく気持ちには、なれなかった。 驚いた顔をして、何も話さない沙和子に、類は「てっちゃんと、離れたくない?」と訊いた。沙和子は、一瞬だけ表情を強張らせた。 類の勘の良さには、いつも驚かされる。 哲司の側にいたい、というよりも、ただ、今の自分の覚束ない小さな恋心を、もう少しでいいから、見守りたい。 そんな感じだった。 その気持ちのせいで、自分がどんな風に変わるのか。胸が痛むばかりなのか、それとも、それすら喜びに変わるような、そんな瞬間を体感することがあるのだろうか。 強く何かを望むことなど一度もなく、身近にいる人間の期待に応えたい、役にたちたい。 ぼんやりとそんなことを思う程度の、つまらない人間だった。 自分でもつまらない、と思っていた自分が、最近は妙にそわそわして、ドキドキして、泣いたり怒ったり笑ったり、自分自身で制御不能の感情に、支配されている。 初めは嫌で仕方なかったそれらを、最近では少し、悪くない、と思うようになっていた。 それはきっと、哲司が笑ってくれるからだ。 最初とは違い、哲司は、沙和子が何か話すたび、一緒に何かをするたびに、笑ってくれる。 二人でご飯を食べている時、本を貸してくれる時、朝、沙和子が「いってらっしゃい」と言った時。 哲司は、嬉しそうに笑う。 沙和子には、それが嬉しかった。
/40ページ

最初のコメントを投稿しよう!

83人が本棚に入れています
本棚に追加