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「…おかしい、ですよね。あの人を、好きとか」
呟く沙和子を見て、類の胸は少し痛む。
言葉にする、という行為の持つ力は、想像以上だ。
「おかしくは、ないんじゃないの。始まりは、ちょっと…かなり、おかしかったかもしれないけど」
そういえば、誘拐された人間が、犯人に好意を抱く場合があるとかないとか、そんな話をテレビで見た気がする。
"なんとか症候群"て、どっかの地名がついてたような…
類はぼんやりとそんなことを考えながら、歩いていた。もちろん、そんなことを沙和子に言う気はない。この、鈍くて、妙に図太い女が、勘違いや思い込みで、恋に堕ちるとも、考えづらい。
そして何よりも、あの真面目で一本気な男が、数々の葛藤を踏み越えて、沙和子を好きだというのだから、それは、本物の恋なのだろう。
「てっちゃんはああ見えて、妙にいい男だからね」
類があまりにあっけらかんとした調子でそう言うので、沙和子はうっかりつられて頷いてしまい、頬を染めながら小走りに類の前に出た。
「さて、どうしようかな」
沙和子はずっと、類の数歩前を、歩いている。
風が吹いた拍子に、長い黒髪が揺れて、白いうなじが現れた。
ふと、よぎる。
後ろから抱きしめて、そこに顔を埋めたら、沙和子はどんな顔をするだろう。
唐突に降ってきた妄想に、類は顔を歪めた。
さらにもう一歩、沙和子との距離をあける。
「やだやだ、怖い怖い」
ぼそりと呟いて、首をすくめながら歩く。
辺りに、人がいなくて良かった。
いたところで、他人の心の中など知る由もないのだろうが、見られないに、こしたことはない。
そんな風に思った。
類は、もう一度夜空を見上げた。相変わらず、澄んだ空気に、普段より明るく光る月。
黙って見下ろされているようだ。
「…月が綺麗ですね」
沙和子には聞こえない声で呟く。
これは、夏目漱石だったっけ。
そう考えて、類は、小刻みに身体を震わせた。
足早に、沙和子を追い抜く。
「うーわーっ、こわいこわい。お月様が見てる」
ポケットに両手を突っ込んだまま、ぴょんぴょんと跳ねるように自分を追い抜いていく類の背中を見て、沙和子はため息を吐いた。
「今度はなんですか。…ホントに、不可解な人なんだから」
自分の初恋を、人生で初めて、打ち明けたというのに。
友達でも、家族でもない、この不可解な男の子に。
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