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 沙和子だけが、周囲の小さな変化に気付かないまま、季節は秋を通り過ぎようとしていた。沙和子がアパートに連れて来られてから、三ヶ月が経とうとしている。 二週に一度ほどの、実家への“定期連絡”も、そろそろ苦しくなってきた。 初めは沙和子に同情していた母親も、「いい加減、機嫌を直して帰ってきなさい」と、非難めいた色を帯びた声音になっている。 電話を切った後、肩を落としてため息を吐く沙和子を、類は遠くから眺めていた。 沙和子は、家に帰りたいと言わない。 理由は、きっと、哲司なのだろうと思うと、その事について話す気にもなれず、類は黙ったまま沙和子に貸したスマートフォンを受け取ることしかできないのだった。 沙和子の事情を、哲司は知らない。哲司が行動を起こさないと、この、今のなんとか誤魔化している現状のまま、どこまでいられるのかわからなかった。 類の気持ちとしては、今のまま、がベストだ。 沙和子が側にいる。哲司と沙和子は離れもくっつきもしない。類と哲司も、普段通り。 今の”ぬるい”状況は、類にとっては一番楽だった。 ただ、哲司が、「旦那と別れて、俺のとこに来い」と沙和子に言うというならば、それを止める気もなかった。 沙和子が息子を捨てるとは考えづらいので、(旦那はともかく)一悶着ありそうだが、哲司なら、それもなんとかしてしまうのではないだろうかと、類は思っている。 後は、二人がどうするか、どうしたいか。 それ以外の、例えば、類の気持ちなどは、すべて持ち込まないことにしようと、類は密かに心に決めていた。 沙和子のことは、”ちょっといいと思っただけ”。そういう風に、片付けることにした。 今度こそ、哲司の幸せを、願う。それが、類にとっての最良だった。 もう少しだけ二人の様子を見守って、あまりにモタモタしているようなら、哲司に話をしてみようか。類がそんな事を考えていた矢先の事だ。 「...こんばんは、俺のこと、わかりますか?」 ボソボソと小さな声で、沙和子の目の前に腰をおろしたのは、アパートの一階の角に住む男だった。 最近めっきり出勤日数の減った沙和子だ。なんとなく、狙い澄ましたようなタイミングに、類は少し違和感を覚えた。 男は、夜の店に一人で来店するようなタイプには見えなかった。
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