【2】少年期 

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正月休みに帰省した折、対面したピアノは彼が知るものとはまったく違っていた。コンパクトなアップライト型ではなく、広い本家の応接が潰れる大きさのグランドピアノだった。ピアノというと真っ黒い漆塗りのような印象があったが、目の前には飴色が拡がる。舶来品だから聞いたことがないメーカーの名前。しかし、ものの価値がわからない幸宏もつい息を飲み込んでしまうような堂々たる姿。 おそらく家が一軒や二軒建ってしまうのではなかろうかという代物だ。 あまりに大きく、重いので、急ごしらえで床を補強した別棟に置かれていた。 そのピアノから奏でられる音色は、ペダルを踏んで音を出すオルガンとは比べものにならない。象牙の白鍵と黒檀の黒鍵の上を妹の指が走る。 まるで父と対話をしているようなその姿に、彼は目を細めた。 父さん――聞きたかっただろうな。 曲が終わったのも気づかず、目を閉じていた兄に「どう?」と妹は鍵盤の蓋を閉めて問う。 「ああ、上手くなったな」 「ピアノがいいから、って言うんでしょ」 「そうは言っていない」 「ところで、今弾いたのは何でしょう」 幸宏は、む、と言葉に詰まる。 天下の秀才である幸宏の欠点は、おそろしい記憶力の持ち主でありながら、花、そして数多の曲名をすっかりさっぱり覚えられないことだ。 首を傾げ、記憶の引き出しを出したりしまったりしてやっとのことで絞り出した名前は。 「……モーツァルト?」 それしか知らなかった。 違う―! と知子は頬を膨らませる。彼女は一語一語言葉を切って今し方演奏した曲と作曲者名を兄に伝えた。 もちろん、彼が耳の右から入って左から抜けるようにすっかり忘れてしまったことは言うまでもない。
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